環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

高宮郡の人穴

「給人原古墳群」は可部古墳群の中で西に離れたところにある。現状では墳丘と天井石を残してなおかつ開口しているものは1基のみ。 天井石や壁の高さを失うと、ただの凹みになって「人穴」とは異なる解釈に変わりそうで崩壊加減が難しい。小田の「湯釜古墳」…

大毛寺の人穴

上ヶ原神代人穴 数拾ヶ所 往古人住居仕候由 奥行五間 横九尺或ハ二間三間有之候片平ニ入口有之中ニ炭ノ粉杯有之何ツノ頃何人住候歟ハ相知不申左右奥ハ築地ニ而上ハ石畳ニ仕雨露漏不申候当時ハ野山又ハ百姓腰林ノ内杯ニ御座候 大毛寺村「国郡志御用ニ付下調べ…

上ケ原の斜面

上ヶ原砂防堰堤*1から南へ流れる帆待川を境に、東に上ケ原古墳群、西に原迫古墳群が分布する。大毛寺と中野の大まかな境でもある。 上ヶ原で近年発掘されたのは標高134mあたりの第34号古墳。過去に確認された三十数基の大半は現在の可部6丁目の住宅地に含ま…

上ケ原の人穴

学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館 の、 「江戸時代の人が見た可部古墳群」(2011.5.13)という記事に「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」(大毛寺村)の「上ケ原神代人穴」が紹介されている。発掘調査によって寛永通宝が見つかった石室もあることに触れ、「…

賀茂郡の火ノ釜(一)

賀茂郡ではもっぱら「火の釜」の呼称でまとめられている。 『国郡志御用郡辻書上帳 賀茂郡 文政二年卯五月』に「寺家村熊野跡村書上帖ニ相見」と、記載のある2ヶ村を挙げるだけでなく、「西條庄高屋庄之内に数々有之由」と、記載していない村々にもあると補…

安芸郡の籠塚

矢野村の「下しらべ書出帖」が「童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候」と書くように、安芸郡内では「こもり塚」(籠塚)の名で記載している村が連なっていて、「火ノ釜」よりも一般的であったらしい。 奥海田村は既に見たように「百姓腰林之内…

矢野東の古墳(ニ)

もう一度「火ノ釜」の形状についての記述を抜き出すと、横穴の寸法と石組みの出来と間口の広さが調べられている。 何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方 それらの西崎山や近隣の…

矢野東の古墳

矢野村の「下しらべ書出帖」では「火ノ釜」という古跡も「西崎山」のものとして登場する。 此火ノ釜ト申スハ御建西崎山の内二三ヶ所有之、何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方ニ…

矢野の渓流

安芸郡矢野の地形を山と海の方向で言い表すのは「国郡志御編集ニ付下しらべ書出帖」*1も同じ。 形勢気候民戸産業之事 一 当村西北ハ海、東南ハ山高ク連リ、一村限り川二筋流出、井手・雨池数々有之候(略) 村の中を流れる二筋の主流は「東川」「西川」と書…

友広神社

友広神社の創建は明らかではありませんが、境内に残る石造物から江戸時代中頃に境内の整備が行われた状況がうかがえます。このイチョウも現在の大きさから、あるいはこの時に植えられたものかもしれません。 と、イチョウの説明板にある。中島村の「国郡志御…

温井八幡の社叢

『佐東町社寺林の樹木名札について』に載る佐東町内の神社は「宇那木神社」「光広神社」「細野神社」「温井神社」「中調子神社」「毘沙門天」の六ケ所。川内の温井と中調子以外は山を背にしているので周囲の森と連続している社叢。 温井神社の境内に多いのは…

社叢の名札

以前開催された紙屋町シャレオの古本まつりで、昭和57年発行の『佐東町社寺林の樹木名札について』という冊子を見かけたので、いずれ参照することもあるだろうと思って購入。 発行時はすでに広島市の一部ではあるけれど、旧町名「佐東町」が安佐南区の「八木…

鐘のね響きて

第一次長州征伐にあたって、広島城下から近隣の村々への人夫動員の合図に寺院の鐘が準備されている。 (略)御城下元鐘ニ応し、一声ニ声三声与受継撞立元鐘止メ候ハゝ、勿論止メ方等聊も相違不致様取計可申、(略) 「城下近郊寺院に人夫繰出し合図の鐘撞き…

巡錫の求聞持堂

弥山の山頂手前には、弘法大師が修行したと伝える求聞持堂。「付近には原始的な磐座信仰の対象とみられる巨岩が多く、これに習合した真言密教の遺跡が少なくない」ということで、古くから誰かしら修行に訪れたのには違いない。 ここに限らず、修行者が「大師…

館町と桜山

和久原川西部、三原駅の北側一帯が「館町」。もと三原城内で、神明大橋西詰に「東大手門跡」の碑がある。 碑のある曲がり角には「桜山登山道」への案内表示もある。桜山は館町のすぐ北にある小山で、全長865mの登山道。平成10年に桜の植樹が始まった、と案内…

「山伏塚」

小田村の『国郡志御用につき下調べ書出帳』に「古跡」として「山伏塚」が載っている。「松笠山ノ内石ニ而三尺九尺ノ穴ヲ築先年山伏這入申候由申伝候」という内容。 前項の「広島市安佐北区所在 山武士塚古墳群の測量調査」にいう第1号古墳が、竪穴式石室に盗…

道教地蔵ルートの脇

小田からの参道の、道教地蔵ルート一丁付近にも四角い窪みをなす石組みが見られる。古代の遺構とかではなく新しい時期の古井戸らしい。古墳はもっと上にある。 古井戸の脇を過ぎるとアカマツにまじってクヌギやカクレミノの林があり、道端にはコマツナギ、コ…

龍水山の井戸

昭和10年奉納の山門から松笠観音寺の境内。括られた表札に「龍水山松笠観音寺」とある。『物語・松笠観音寺』*1には「観音堂再建」の章で山号についての考察がある。「龍水」を瀧の意とすると戸坂側からの呼び名であろうという。 同書には「弘法大師の水伝説…

岩海の地蔵堂

小田のうち、戸坂との境に近い方が「下小田」で、東に松笠山がせまり西に太田川が向きを変えようとする直前。 堤防上の「高陽中央通り」ではなく山に近い道に面して「道教地蔵堂」があり、松笠観音寺への参道の入口になっている。 小田村の『国郡志御用につ…

大正12年の階段

鳥居の手前の階段は右に「大正十二年十月吉日」とあり、左側には前項にあるように「寄付者 字小田」の名前が刻まれている。墨があるとないとでは見やすさが違う。 拝殿に上がる階段も同じく大正12年。ここでは側面に寄付者と年月と石工の名がある。「當村」…

白い煙突

『西条の酒蔵煙突』(東広島郷土史研究会四日市町並研究会.2012)には18基の煙突が紹介されている。そのうちの「亀齢五号蔵」と「賀茂泉」が鉄筋コンクリート製で白い。他はみな赤レンガ積(イギリス型が15基・ドイツ型が1基)。 賀茂泉の煙突は、もと広島…

由緒の事項選択

厳島神社社殿入口近くの「厳島神社御由緒」の札はおおよそ五部門で構成される。 御祭神 社殿の創建 御幸 社参 祭儀 「御幸」として「後白河法皇」と「高倉上皇」が、「社参」として「平清盛公」「前太政大臣花山院忠雅公」「徳大寺実定公」「足利義満公」「…

承安四年の御幸

『厳嶋道芝記』の「巻一 本社之部」には「御幸之事」という項があり、厳島神社に上皇の御幸のあったことの史料を挙げている。その筆頭に承安4年の後白河院の例がある。 百錬抄曰承安四年三月十六日法皇建春門院臨幸安芸厳島 四月五日還幸云云 按するに法皇ハ…

庚午橋

長らく太田川放水路最南部の橋だったのが「庚午橋」で、上流橋と下流橋、さらに商工センター方面から下りてくる車線の立体交差橋から成る。親柱の造形が上下の入り組み具合を表しているような感じ。 西へ向かう下流橋の先は「草津沼田道路」の入口に通じる。…

図録の一覧を見つつ

その郷土資料館の刊行した図録・報告書の一覧を見ていると、いつごろどんな展示があったかの大体が分かる。展示を見たけれど刊行物がない場合や、展示は見たけれど買いそびれた時や、展示そのものは見ていない図録を後で買ったり。 一覧によると平成21年はじ…

神田橋(牛田橋)

牛田橋 一名神田橋、もと一本木二股の邊に在、直に神田八幡宮への路に出、水勢支へかたきを以、今地に移す、長六十間 『藝藩通志』巻七 安藝國廣島府ニ 橋梁津渡 とあるように、白島の北端近くの「一本木」*1から牛田村の「神田」へと渡る「神田橋」が、流さ…

牛田旭の石灯籠

『牛田町誌』の25ページには、「塚部(つかなべ)の灯ろう」「早稲田神社前」「椎木(しいのき)にあった灯ろう」の三基の石灯籠の写真が載っている。 何れも弘化5年に早稲田神社の氏子による奉納。社号碑近くのものは「奉獻」、牛田旭のショッピングセンタ…

天満宮の言葉

神社の由緒に関連のあるような詩文や古典の一幕などがあれば、注連柱に刻む成句も選びやすいのかもしれない。 尾長天満宮(東区)の階段をのぼりつめた見晴らしの良い場所に注連柱があり、「厳島神社宮司淺野忠純」の揮毫による「昨爲北闕被悲士」「今須望足…

新庄の宮神社の社叢

国道に面した夫婦楠を含めて、新庄之宮神社の境内の社叢をひっくるめて県指定の天然記念物となっている。(昭和29年指定) 社殿の正面は樹木が少なく、鳩溜まり*1になったりする日当たりの良い広場で、社殿の背後を取り囲むように木々が残っている。 境内西…

抱岩の道

鳴の対岸では県道の上にも下にも岩場が広がる急斜面。 可部方面に向けて立っている看板に「抱岩地蔵」とある。 だきわ地蔵 : かべの町かど のページ*1によると、寛保三年に川沿いの道が開かれて以来の地蔵で、現在地の前にはさらに高い所に位置していた。 今…