環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

龍水山の井戸

昭和10年奉納の山門から松笠観音寺の境内。括られた表札に「龍水山松笠観音寺」とある。『物語・松笠観音寺』*1には「観音堂再建」の章で山号についての考察がある。「龍水」を瀧の意とすると戸坂側からの呼び名であろうという。 同書には「弘法大師の水伝説…

岩海の地蔵堂

小田のうち、戸坂との境に近い方が「下小田」で、東に松笠山がせまり西に太田川が向きを変えようとする直前。 堤防上の「高陽中央通り」ではなく山に近い道に面して「道教地蔵堂」があり、松笠観音寺への参道の入口になっている。 小田村の『国郡志御用につ…

大正12年の階段

鳥居の手前の階段は右に「大正十二年十月吉日」とあり、左側には前項にあるように「寄付者 字小田」の名前が刻まれている。墨があるとないとでは見やすさが違う。 拝殿に上がる階段も同じく大正12年。ここでは側面に寄付者と年月と石工の名がある。「當村」…

白い煙突

『西条の酒蔵煙突』(東広島郷土史研究会四日市町並研究会.2012)には18基の煙突が紹介されている。そのうちの「亀齢五号蔵」と「賀茂泉」が鉄筋コンクリート製で白い。他はみな赤レンガ積(イギリス型が15基・ドイツ型が1基)。 賀茂泉の煙突は、もと広島…

由緒の事項選択

厳島神社社殿入口近くの「厳島神社御由緒」の札はおおよそ五部門で構成される。 御祭神 社殿の創建 御幸 社参 祭儀 「御幸」として「後白河法皇」と「高倉上皇」が、「社参」として「平清盛公」「前太政大臣花山院忠雅公」「徳大寺実定公」「足利義満公」「…

承安四年の御幸

『厳嶋道芝記』の「巻一 本社之部」には「御幸之事」という項があり、厳島神社に上皇の御幸のあったことの史料を挙げている。その筆頭に承安4年の後白河院の例がある。 百錬抄曰承安四年三月十六日法皇建春門院臨幸安芸厳島 四月五日還幸云云 按するに法皇ハ…

庚午橋

長らく太田川放水路最南部の橋だったのが「庚午橋」で、上流橋と下流橋、さらに商工センター方面から下りてくる車線の立体交差橋から成る。親柱の造形が上下の入り組み具合を表しているような感じ。 西へ向かう下流橋の先は「草津沼田道路」の入口に通じる。…

図録の一覧を見つつ

その郷土資料館の刊行した図録・報告書の一覧を見ていると、いつごろどんな展示があったかの大体が分かる。展示を見たけれど刊行物がない場合や、展示は見たけれど買いそびれた時や、展示そのものは見ていない図録を後で買ったり。 一覧によると平成21年はじ…

神田橋(牛田橋)

牛田橋 一名神田橋、もと一本木二股の邊に在、直に神田八幡宮への路に出、水勢支へかたきを以、今地に移す、長六十間 『藝藩通志』巻七 安藝國廣島府ニ 橋梁津渡 とあるように、白島の北端近くの「一本木」*1から牛田村の「神田」へと渡る「神田橋」が、流さ…

牛田旭の石灯籠

『牛田町誌』の25ページには、「塚部(つかなべ)の灯ろう」「早稲田神社前」「椎木(しいのき)にあった灯ろう」の三基の石灯籠の写真が載っている。 何れも弘化5年に早稲田神社の氏子による奉納。社号碑近くのものは「奉獻」、牛田旭のショッピングセンタ…

天満宮の言葉

神社の由緒に関連のあるような詩文や古典の一幕などがあれば、注連柱に刻む成句も選びやすいのかもしれない。 尾長天満宮(東区)の階段をのぼりつめた見晴らしの良い場所に注連柱があり、「厳島神社宮司淺野忠純」の揮毫による「昨爲北闕被悲士」「今須望足…

新庄の宮神社の社叢

国道に面した夫婦楠を含めて、新庄之宮神社の境内の社叢をひっくるめて県指定の天然記念物となっている。(昭和29年指定) 社殿の正面は樹木が少なく、鳩溜まり*1になったりする日当たりの良い広場で、社殿の背後を取り囲むように木々が残っている。 境内西…

抱岩の道

鳴の対岸では県道の上にも下にも岩場が広がる急斜面。 可部方面に向けて立っている看板に「抱岩地蔵」とある。 だきわ地蔵 : かべの町かど のページ*1によると、寛保三年に川沿いの道が開かれて以来の地蔵で、現在地の前にはさらに高い所に位置していた。 今…

塩町の駅

駅長さんの書いた駅名(広島鉄道管理局)ものがたり (1977年)の本は、国鉄の広島鉄道管理局(当時)の範囲を扱っていて、芸備線の記述は「神杉駅」から始まる*1。 その「神杉駅」の項でも一部「塩町駅」について触れられている。大正11年の開設時は「塩町駅」…

美波羅川

広く江田庄と括られた三谿郡西部地域。そこで一番大きな川が「美波羅川」で、みよし風土記の丘の東を流れて馬洗川に合流している。源流は世羅郡の青水。 前項と同じくふるさとの川と桃源郷 (芸備選書)。 p47からp53は「美波羅川-正しくは三原川。美波羅川は…

馬洗川の名

神和橋の下流側の欄干は外側へ開いているので、端部の橋名板が隠れるようにガードレールが連なっている。 それはともかく、「馬洗川」(ばせんがわ)。 ふるさとの川と桃源郷 (芸備選書)によると*1、世羅郡の馬洗池(まあらいけ)を語源とする統一名称として…

向江田水管橋

map:x132.909814y34.77991:hybrid:w450 東から西へ流れる馬洗川に架かる備北大橋。その下流側には「向江田水管橋」が架かっていて、管理通路はフェンスで閉じられている。 川の北岸地域が向江田で南岸地域が江田川之内。三谿郡時代の西部15ヶ村*1を広く差す…

汗馬の「がきが首」

皆賀一丁目の東が井口四丁目。佐伯区と西区との境「汗馬(阿瀬波)」は鈴が峰の南西に延びる丘陵。 旧西国街道の路傍に「餓鬼の首地蔵」の祠がある。平成21年設置の説明板「西国街道 いのくち歴史の散歩道」が隣に立っていて、「餓鬼の首」と呼ばれた場所の…

八幡橋

国道2号が通っているのが「八幡川橋」*1で、その上流にあるのが「八幡橋」。川の名を橋に使う場合「○○橋」が先行して「○○川橋」が後発になりがち。 旧西国街道にあたる。西詰めが県道199号*2の曲がり角で、五日市駅北口へ通じる。東へ渡ると皆賀の南端を少し…

細い石内川

「出水之筋ハ材木数流レ候程之水勢ニ御座候」*1こともあるけれども、普段は細く水量の少ない石内川。立て札も相応にこぢんまりしていたり。 本流たる八幡川は上流に魚切ダムがあるだけあって、川幅が広い。水量はそこそこに。 『藝藩通志』(巻五十一)の「…

城山とその境界

造成された城山の区画の一部に整備された墓地。坂道から見上げるような墓地の入口に区画整理事業の竣功記念碑がある。平成元年の建立。 施行区域 五日市町大字五日市字城山地毛 大字保井田字扇面石飛茶臼山西 大字倉重字向山山根原 五日市町折出 以上の一部 …

尾関山の稲荷の遍歴

『三次町国郡志』の古城跡の部に尾関山が載っていて、三次領断絶後の稲荷社の動きも含まれている。 又稲荷社も御座候由の処、此社御家中広島表へ御引越の后、畠敷村岩屋寺に有之候処、文化の末又御館内へ御遷座相成申候処 由緒の碑に「以来 時に盛衰有るも町…

金網越しの神道碑

その合塔の奥には神道碑を包む廟宇が一軒。三次領初代浅野長治(鳳源院)による浅野長晟(自得院)の神道碑(墓道・参道に建てる頌徳碑)。 見上げると概要を書いた札が取り付けてあって、「従四位下拾遺補闕兼芸備二州都督 浅野長晟公神道碑」と大きく書か…

浅野長照・浅野長経・浅野長寔合塔

林を下り、瑤泉院遺髪塚や浅野長治(鳳源院)による神道碑などの集まる区域。 神道碑の正面に、西を向いた石塔が立っている。立て札には三名の合塔とある。二代目の騰雲院「浅野長照」、四代目の又六郎「浅野長経」、兄の早世によって断絶したのち再興して五…

経ノ尾の経塚

資料館や大願寺のある西町と、さらに西の大元との間に「経ノ尾」が海に向かって突き出ている。 経尾 大元へゆく路の岡にあり。傅へ云、平相国、一石一字の法華経を、こゝに納めしと。今も一石塔あり。其處より經字石を出すことあり。此地の草樹ハ、采樵すれ…

水害之碑(安芸郡矢野村)

安芸区矢野の中心部を流れる川は、宮下川と矢野川の二本がある。 明治42年建立の「水害之碑」は、町の東部の支流を集める「矢野川」に架かる矢野橋のたもとに立っている。明治40年の水害についての記念碑。 『新修矢野町誌』には「第四章 社会生活」の「第二…

えの宮公園の水害記念碑

畑賀など瀬野川流域だけでなく、府中町でも大きな水害となった。 えの宮公園内の昭和19年建立「水害記念碑」。題字は法学博士正木亮。この翌年に広島控訴院検事長となる*1。 「大正十五年九月十一日前夜半來豪雨アリ榎川其他ノ各河川氾濫シ堤防決潰三千五百…

畑賀川の砂走橋

先日、 紙屋町シャレオ 古本まつり で『海田町史 通史編』と『海田町史 資料編』を買いまして、 海田町メールマガジン第130号(平成24年1月15日) > 海田町 によると、図書館や公民館などで販売しているらしく*1、各定価2500円。今回それより安く買えてお買…

一箱古本市

ブックスひろしま さんの開催による広島での「一箱古本市」。 昨年3月12日の「一箱古本市@袋町公園 まちなかホコテン」で初めて出店しまして。 60冊くらい持って行って売れたのが8冊*1。やみくもに持ち込んでも、あれを持って来るべきだったとか惑いかねな…

常友の八幡宮

吉田町常友。 国道54号が用水路のような大迫川を跨ぐあたりが八幡宮の麓。 『高田郡村々覚書』の「常友村」に、「八幡宮壱社」とあり、 (略)常友村常楽寺村竹原村国司村四ヶ村氏神 昔ハ壱ヶ村にて竹原庄夫故竹原八幡と申伝候 と、近世の村に分かれる前の「…