環藝録

はてなダイアリー『看藝累記』をインポート

石碑石塔

杉森橋の北

近大通りに架かる橋が「杉森橋」で、大学の南西部の山林には杉森八幡神社が鎮座する。 神社の東の山中は、芸藩通志掲載の杵原村絵図には「大通寺跡」とある。 山の中や麓のそういった信仰の名残というわけか、切り通しのように固められた道路の脇の擁壁に、…

城を望む楓樹

植樹されて間もない時期は幹が細いので、それを囲む範囲も狭い。 植樹の経緯を説明する記念碑も囲いの広さに応じて近い。 広島城跡内堀の北、基町高校向かいの公園にタイワンフウの植樹が二本。 www.sankei.com 日光東照宮の楓樹と広島市の被爆アオギリ二世…

若宮古墳の石柱

三次市十日市町の若宮古墳はさらに古い時期に指定された史跡なので説明板がさび付いていた。十年前の写真なので今はどうだろう。 説明板の手前には太い石柱に「広島県史跡 若宮古墳」と刻まれている。木より石か。

昭和のおはか道

博物館横からの坂道が毛利元就墓所または郡山登山道への入口となるが、昔の入口はもっと東側にあり、途中で毛利隆元墓所を通りやすいルートだったようで。 「毛利公おはか道」と大書された石柱は遠くからもよく見える。いつ頃の物かよく見ていないが、「吉田…

御火葬場の石

当時のものか知らないけれど、植えられた木の手前には石組みが段の正面を区切っていて、いかにも近代に整えられたような半月形の石。 木と並ぶ石碑は明治22年に立てられた。この場所を「毛利洞春公御火葬處」の名で顕彰する。

目印の樹

物産としての木より記念物としての樹の方が記憶されやすくて写してもらいやすい。 前項と同じく吉田村の「下調書出帳」に、「古跡」として挙げられているのは毛利元就墓所を筆頭とする古墓がほとんど。 御塚標樹 此御霊木はハリイフキとて世に数少き名樹之由…

記念植樹の碑が台形

都市の中の緑がその公園の中心なら、それを表彰する碑は、茂みに隠れて少し文字が見えないくらいがちょうどよい。逆に神社の注連柱などの、語句が主役の碑面が隠れる状態が続いては具合が悪い。 記念植樹に現れる人名が地元に(広島に)関わりある人なら、そ…

福山城周辺地区の中心

美術館正面の通りの脇は、モニュメントの点在する緑地で、「都市景観大賞 都市景観100選」の記念碑が通りに近い植栽の中にある。 受賞は平成8年。当時の建設大臣の中尾栄一の名が載る。背面には受賞理由が載るが枝葉に隠れる部分があり、「都心部の緑豊かな…

福山城内にある寄贈物

長屋門の背後に広がる「先人之森」も植樹されて整備されている。こちらは福山中央ライオンズクラブ。 天守の南の本丸広場には古いポールが「福山ライオンズクラブ」の名を示す。 福山城公園入口に昨年設置された案内図は「福山東ライオンズクラブ」。 文化ゾ…

植え続けられた桜

移築長屋門は福山城公園内の木々を引き立てる。または後から植樹された木々によって引き立てられる。 手前の桜植樹は福山シニアライオンズクラブによって平成16年から育てられた林。「桜を大切に」と刻まれた記念碑の背面に年ごとの植樹の本数が列記されてい…

格納箱置場

亀山南の伊勢神社(長井ふたたびの宮)では、拝殿脇にホース格納箱が置かれている。 正面からは見えにくい位置にあり、電工ドラムといっしょに物置のような一角。周囲には棒状の石材が積まれたり立て掛けられている。その一部は「旧鳥居」の脚部で明和9年の銘…

草茂る亀居城

文学碑が点々と据えられている大竹市の亀居城跡。石碑の形が様々なので、掘りくぼめられて磨かれた面は読みやすいが、字の彫られた面にも苔が広がっていたりするとぼんやりしてくる。 それを見た時期が草木の茂る夏場だったこともあり、城跡の小道全体がじめ…

聰敏神社由緒書

水野勝成を祀る聡敏神社は福山八幡宮境内奥に位置する。 平成6年に奉納された由緒書の石碑も、加工の加わらない部分が額のようになって銘文の面を囲む。うっすらと苔もあり付着した模様もあり、庭石のように馴染んでいる。

苔の額

呉市天応の田中八幡境内に「戦役記念碑」が立っている。大正12年5月の建立。 境内の入り口近くの低い段にあり、四重の台石に乗って見上げる高さになる。当時の第五師団長の陸軍中将山田陸槌の揮毫。 刻字のため整えられた面の中心は白く、凹凸の残る周囲が緑…

碇神社の御即位記念碑

中区の碇神社の記念碑群は境内南側の境を背にして並んでいる。 そのなかでも大きく黒い「御即位記念」と刻まれた石碑は「白島青年會」による。 上部が欠けていて年号部分が読めない。過去の多くの即位礼の中でほとんど大正か昭和に絞り込まれるけれど、数百…

背後の玉垣

表の参道沿いの整備はそういった節目の年に行われ、 社殿背後を取り巻き、裏参道に開く新しめの玉垣は、昭和天皇在位50周年記念として整えられた。 その芳名板は境内社の並ぶ庭のような空間に立つ。木立が密集していないので明るい。

階段とその脇

表の参道が整備されたのは、注連柱や鳥居の紀年にもあるように皇紀2600年紀年の事業。階段を登った所に建てられている石碑に「参道張石階段改築當時の総代」が列記されている。 階段の麓には「明治百年記念」の玉垣が連なり忠魂碑の方へ導く。 鳥居の前 - 環…

昭和43年の裏参道

その注連柱の先には、同じく昭和15年の石鳥居や明治百年記念植樹など多数の石造物がある*1。階段を上がる表の参道。 社殿の背後には車の通れる坂道が通じている。そちらにも注連柱が建てられていて、墨も黒々と「敬神」「崇祖」。 戦後の注連柱で新しいとい…

山田春三の書

石造物の説明板には「又柱」と書かれている標柱(注連柱)は明治39年の建立。 語句は「邦家之経緯」「王化之鴻基」で古事記に拠る。背面の書が止め払いを強調するのに対して正面の語句は滑らかに次の字画につながる。

高い灯籠の台座

同じく本川西岸に鎮座する空鞘稲生神社。堤防の内側に位置していて境内から川を見ることはできないが社殿は東に川の方を向いている。 御由緒・御祭神 | 空鞘稲生神社【公式ホームページ】 公式サイトの掲載の昭和5年の写真には鳥居と灯籠と狛犬が写っていて…

新聞社近くの胡子

土橋の胡神社は本川西岸の雁木とともに舟運で賑わった町の名残のひとつ。 玉垣のうち古いものには屋号ごとの印が名前とともにあり、 (胡神社の玉垣 - 環藝録) 新しいものは中国新聞社や光和建設(現ソルコムか)などが並ぶ。

大竹の企業名

胡子の所在はその町のその当時の繁栄を反映する。由緒書きにも「大企業も市域では八社が林立」とある。 その境内を囲む玉垣は個人名と企業名が入り交じり、大竹市を代表する工業の紹介ともなる。中には「大竹市金融団」といった団体名も。 参道脇の石灯篭に…

昭和42年遷座

大竹胡子神社が現在地に遷座したのは昭和42年。それ以前の紀年の石造物は設置当時の配置ではないことになる。 遷座の年に建立された注連柱は「衆供之進路」「開運之標準」の語句。いかにもご胡子らしいご利益の強調で虚勢がないともいえる。書体は習字のお手…

色付き毘沙門天

その注連柱の立つ参道口には、社号碑のほかにも鳥居や灯籠や個人名の顕彰碑など多数の石造物が固まっている。 そんな地点におけるingressのポータルは自然石にペイントされた「毘沙門天」に設けられている(現時点で)。 同所にある他の石造物を申請するとすれ…

参道入口に注連柱

『廣島縣の標柱』には大瀧神社の標柱は3対が掲載されているが、そのほかにもある。 社号碑の立つ参道入口は住宅街の只中で参道らしからぬ生活道路のよう。そこに立つ注連柱は、先ほどの豊年橋よりも古い明治40年。 「明治三十七八年日露戦役出征大竹軍人」に…

石橋に明治と昭和

その鳥居のすぐ先にある石橋は「豊年橋」。親柱の一つには「ほうねんは」と見える。「し」は埋もれている。 内側には「昭和十三年」とあるが、外側には「明治四十三年」と見える。向かいの親柱の内側には、何とかの記念の為と刻んである。明治だと大韓帝国で…

鳥居の注連縄にも札

大瀧神社の山の上も麓も含めて、参道には何基もの鳥居が立っている。 50年の祝い - 環藝録 階段の手前に立つ金婚式記念の鳥居のさらに手前、小さな橋を挟んだ位置には皇紀2600年記念の石鳥居。 そこにかけられた最近の注連縄は薄茶色で拝殿前と同じ。ここに…

大正の注連柱

その看板の立て掛けてある注連柱には、「皇威」と「四海」が見えるので、間に隠れている一文字は多分「洽」か。正解は『広島縣の標柱』に載っているとして。 向かいには「神徳輝天地」とある。この注連柱は大正11年の建立。背面に刻まれた紀年銘は強く連綿す…

垣根の下の石

その芳名板の下の石積みには、「原爆誌」の碑が取り付けられている。左に英文表示も。 原爆により本殿も拝殿も焼失した。本殿が再建されたのは昭和59年。本殿焼失時の痕跡をとどめる物がこの石積みだけということで「永久に保存すべく」この碑文が設置された…

友廣神社の鳥居更新

友広神社(安佐北区)の元文2年の鳥居*1は脇に安置され、参道には新たな石鳥居が立っている。 低くなった元文の鳥居が跨ぐのは、新鳥居の奉納者の芳名板。 法人名は末尾にまとめられ、個人名は氏子集団の単位「組」でまとめられる。「三軒屋組」「エメラルド組…