環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

石碑石塔

石碑の復旧

移転するつもりのない石碑が、災害によって攪乱されてしまった後、傷を残しつつも元の位置に直された姿は、災害からの復旧を象徴する意味が加わる。 安佐南区の細野神社の麓に立っていた「定用水碑」と「熊野忠左衛門墓碑銘」が豪雨災害により土砂に流された…

可部の北の分岐

石碑に「南无阿弥陀仏」と蓮華の刻まれた道しるべが横川(南原川が根の谷川に合流する附近)に据えられている。 正面左右に「右ミよし」「左はまた」と並べることで、南から北への道しるべの役を果たす。逆の機能は無いというか必要がなかったのだろう。 現…

裏面は近代

同じく吉田町にある地蔵堂の前に、種字を刻んだ記念碑が立っている。 享保13年に二百年の法要をつとめた記念として、平らな石ではないけれど凹凸は少ないので刻まれた字は白く映えて読みやすい。 その裏面は元々字を刻むことを想定していなかったのだろう、…

灯籠に刻まれる字

吉田町の住吉神社に据えられている石灯籠は、手を加えない不揃いな面の竿石の比率が大きい。胴長。 大きめな字は、「萬延元」の紀年銘の面くらいで、他の面には細く小さな字が崩して浅く掘られているので、このままさらに風化したら文字があることもわからな…

粗い四面

厳島の参道にひょっこり立っている低い石柱は、上面を水平に均した方位盤が刻まれている。 普通の記念碑と違って、側面の四面よりも天辺を見てもらいたがっている。 だからというか、全体のバランスのためか、側面が平滑でないため刻字が凹凸に紛れてしまう…

河戸筋の要所

可部中央から西へ、柳瀬・今井田方面へ通じる県道は、可部線沿いの区間が着々と拡幅整備されている。 旧河戸駅の手前あたりは元々そこそこの道幅を持っていて、昭和の昔から簡易郵便局や商店が集まっていた所。 大字の中心地といった立地の名残として、警鐘…

駐車場の角の道しるべ

可部の旧道(可部駅東口に通じる県道及びその北に延びる旧可部町中心街)を、柳瀬筋へ別れる交差点には、以前(平成20年)石柱の道しるべが立っていたのを見かけた。 kanototori.hatenablog.jp それから年を重ねると、その道しるべのあった角地がコンビニに…

駅から三丁西

栄橋とそこを通過する道は、近代の市街地の道という性格が濃くて、 東詰の駐輪場脇に立つ道しるべには、「舊大本営」や「泉邸」への距離が示される。橋を渡らず北に向かうと饒津神社。どれも昔の絵葉書の定番にあたる。

花崗岩のモニュメント

猿猴橋の広島駅側には、平成28年の復元の際に造られたモニュメントがある。 復元前の親柱と欄干を使って説明板と共に立つ。 金属供出前の姿を復元したことで、黒との配色が目立つことになり、被爆時の石の橋の姿は説明板の写真で補足されることになった。原…

立てかける柱いくつか

鞆にある寺院をめぐる「鞆の浦古寺めぐり」の寺は19ヶ所あり、萬年山小松寺は大観寺と静観寺の間の順路。 寺号の「小松禪寺」の碑には小さめの古寺めぐりの看板がくくられ、「妙心寺派」の碑には「有髪薬師地蔵尊」の縦長の看板が前に立つ。 さらに手前には…

見える面と見えなさそうな面

階段の麓の欄干の親柱では、下側の面と内側の面が参道を行く人の視界に入るので、年月日や寄進者を刻むならその面がいいのだろうけれど、 その柱を使って別の器材を取り付けようとすると、刻まれた寄付者名が見えなくなる。「中」と末尾にあるので何かの団体…

文久の島屋

表参道の階段麓にも同じような手すりと親柱がある。 こちらは文久2年の奉納で向かって右には「島屋長右エ門」の名がある。 屋号の印の山と、「文」と「久」が、左右への払いを整えている。

脇の参道の手すり

天満宮の表の階段は西へ曲がりながら南北に通じる。 駅に近い脇の参道は、随身門の奥で別れる道。 その階段の脇の斜面は、崩壊防止の工事ではなく石垣によって固められている。 石造りの手すりと、さらに出されたステンレスの手すりが世代の積み重なりを表す…

昭和50年の擁壁

天満宮表参道の階段は急斜面をのぼるため曲折がある。 「篠尾山崩壊防止工事」により擁壁に斜面が擁壁に覆われたのが昭和50年。西側の駅近くの斜面が先に施工されている。 参道の石段とその縁に連なる玉垣は、擁壁のないころからあった石造物となる。周りは…

慰霊碑とお供え

その慰霊碑は灘尾弘吉の揮毫。地元にちょっと近い。 石の上から下までぴったりに収まって軽快。 台座の石は手前に突き出して平坦なところがあり、酒や花のお供えが置かれる。 生存者一同の備えた石灯籠も傍にいる。 ようやく終わるこの年度。

砲弾の柵

能見島(江田島市)の、海水浴場近くの利根公園には「軍艦利根戦没者慰霊碑」がある。 慰霊碑を囲む柵は白い砲弾を立てて鎖を渡してある。賽銭箱も白い。 公園自体が細長いから、敷地のへりにある錨を囲んでいるようにも見える。

木の柵も緑

はてなダイアリーとはてなブックマークのプラス(有料版)を使ってたこともあって、はてなスターの緑はまだたくさんある。 現状ではこれ以上増えないが。 宝物館へ向かう石橋の近くに、一遍上人奉納と伝える宝篋印塔が並ぶ。 急斜面を背にして手前には木の柵。…

小さな水害記念碑

可部の旧街道に近い川は根の谷川(根谷川)。街道筋とその周囲の集落は幾度も水害に見舞われた。 そのうちの昭和3年の洪水により品窮寺境内に4尺の浸水が及んだことが、「水害紀年碑」に残されている。小さな角柱ながら、石垣の角に立っているので草木に埋もれ…

もみじ谷整備の刻字

頭上のゆるぎ岩へと登る遊歩道には、黄色い手すりが設けられていて、擬木の階段とともに石仏めぐりを助ける。 その道の脇に「もみじ谷」の名を示す石碑があり、その両脇には手すり寄贈者の碑と、隣の観音水のボーリング工事者の碑があるので計三本の石碑が「…

手水鉢とその周り

平成20年に設置された「熊谷の手水鉢」の記念碑は稲荷鳥居の南脇に立ち、そのすぐ奥に苔むした手水鉢が鎮まっている。苔とシダと藪に包まれた凹凸の著しい石の塊。 前世紀に『ファミリー可部』で連載された「かべの町かど」に載る「寺山」の項の稲荷社の写真…

神紋の突起

大鳥居の右脇には背の高い社号碑が立っている。 上部に神紋を据え、その下に「延喜式内社 伊豫国一宮」を二行に並べ、「大山祇神社」の字は全体の半分の広さを取る。 文字は掘りくぼめられていて紋章は突き出ている。ずいぶんと高いというか深い。

米の字の磨耗

聰敏神社と同じく、福山八幡境内奥に鎮座する松尾神社。 階段下に立つ石灯籠は安永7年の奉納。 その古さは正面に大きく刻まれた「米中買」の字のおぼろげな輪郭に現れる。

台石の低さ

福山八幡境内の聡敏神社石灯篭は「下魚屋町中買中」による奉納。今の今町と笠岡町のあたりに魚問屋があった。 二段ある台座のうち、上段の石は上三分の一ほどが飾りのため字が刻めない。「下魚屋町」の四文字がちょうどおさまる高さの側面のため、屋号を持つ…

芳名林立

衝立のように参道脇に広がる芳名板と同じく、一件一件の奉納者名が石柱に刻まれて隙間なく並ぶ姿は、横に連なる長さが権威づけとなる。一件一件への顕彰でもあるけれど、数が増えるほど構成要素のごく一部に均される。 時代を経て百圓が百万圓になっても変わ…

東の参道脇

福山八幡宮は東西の御宮があり参道も二ヶ所ならんでいる。 東御宮の階段麓に「儀式殿建設記念」の芳名板が連なっている石三枚におよぶ。儀式殿は麓の「東参集殿」の奥にある。 連なる玉垣と同じく、長い参道には長い芳名が似合うと。

総経費の面

その屋根替えのために一般氏子中から188万五千円奉納されたのが表に刻まれている金額で、左側面には総経費280万円が大きく刻まれている。 下の隅には石工の名も刻まれている。それ自体はよくあるレイアウトながら、石工からも「金六千円」が出されていること…

屋根替えの芳名

福山八幡宮の「御屋根替記念」の石碑は表の面に六段にわたって寄付者の芳名が刻まれている。金額別のいろは順となっている。最後が「世良」さんの後に「川口」さんなのは何なのだろう。 筆頭には3万円の「山陽染工会社」の名があり、次の6件が2万円となる。…

奉賛会の記念碑

寄附の芳名板の形がいろいろある中で、石碑に金属板を嵌めて参道脇に立ててあるのは、末永く残るのはもちろん今現在参拝する人にしっかりと見えるようにという強調の度合いが強く見える。 福山市の艮神社の、900年記念の一連の慶祝事業を記念する石碑に寄付…

しんぼくの木の根元

そんな大浦崎は「現在では平和な公園 町民いこいの場所となっている」と綴られるように、体育館とそれを取り巻く公園と海浜からなる。石碑の背後が高校のカヌー部の艇庫というのも良い背景を成す。 「しんぼくの木」という記念樹は基地跡の石碑より古く、昭…

大浦崎の知名度

大浦崎は、砂浜と海食崖という自然を残す場所してよりも、特殊潜航艇(甲標的)の工廠跡地として有名。 体育館やスポーツセンターのある公園区域に、平成4年建立の「特攻基地大浦崎(P基地)」の記念碑がある。厳しくはない書体。