環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

遺跡

脇の脇

吉川氏が駿河から勧請した八幡宮が龍山八幡で、右脇に接している社が治功神社。 安永9年、吉川経倫により再建された社殿が現在のもの(『大朝町史 上巻』)ということで、龍山八幡と比べてしまうとどうしても新しい。 吉川興経とその妻子を祀るのでこちらも…

古保利古墳群の案内図

古保利薬師の収納庫の後ろ脇には、稲荷・金比羅の小祠が控えている。寺院境内の最後部であるとともに、山林中に点在する古保利古墳群の入口でもある。 案内図には主な古墳が載り、確認されただけでも53基という。

盆地の東の工業団地

その石棺は氏神正田遺跡で見つかったもので、身長158cmの熟年男性の人骨も残っていた。 ということを記す説明板が石棺の奥(境内入口から見て)に立ててあり、字が薄くなっていることもあって読みやすくはない。 千代田町八重の盆地の東に「氏神地区工業団地」…

寺院跡に移された石棺

北広島町の小保利薬師(福光寺跡)は県内屈指の平安仏拝観の地。 その収蔵庫隣に一基の箱型石棺が移築されている。側面の石はほぼ土の中で草や苔に包まれて、さらに生垣が囲っていてあまり目立たない。

長束にあった円墳

それと同じ囲いの中に、「池の内第2号古墳」の竪穴式石室もある。 安佐南区長束にあった古墳の埋葬施設で、長束・祇園・山本の境に近い丘陵上にあった。 古墳時代 - 広島県ホームページ 三次の歴史民俗博物館は同古墳の家型埴輪を所蔵している。

上小田の箱と蓋

それらの石棺と園路を挟んで向かいにある大きめの移築遺構は、安佐北区の上小田古墳で見つかった組み合せ式石棺。大きさと配置からして移築物の中心的存在。 木の囲いで見えにくい角度かあるものの、側面の石とは別に奥に置かれた蓋石の大きさが印象的。

佐久良墳墓群の石棺二基

その隣にちょっと奥行きを持って並んでいる石棺が二基ある。 説明板に「箱型石棺(佐久良墳墓群)」とあり、「さくら」と振りがなもある。 佐久良遺跡 丘の上に箱型石棺10基・土壙3基が調査され、人骨9体も見つかったことで地元の注目を集めた。 その内の2基…

向江田町権現からの移築

中庭の中心部ではなく、通りに近い所にある石棺は、居並ぶほかの石棺・石室よりも低い位置にあって小ぶりに見えるものの、三次市向江田の権現第2号古墳の石棺の中では最大のものが置かれている。 行事のご案内 「中国横断自動車道尾道松江線建設事業」のため…

鴻の巣南遺跡

鴻の巣遺跡のあるあたり、大学敷地の西北部が「鴻の巣」という地名のようで、中央部の池に下る手前の「鴻の巣南遺跡」や、西北端の「鴻の巣北」遺跡などの広範囲。(山林だった頃は広く感じなかったかも) 鴻の巣南遺跡の説明板で大きくとり上げられているのは…

鴻の巣遺跡

広島大学のデジタルミュージアムにある文化財博物館で、広島大学構内の遺跡の詳細を一部知ることができる。 広大デジタルアーカイブス 学士会館近くの緩斜面に分布するのは「鴻の巣遺跡」。旧石器時代から中世まで各種の遺構や遺物がある。 説明板は階段の脇…

土の上の土

そういった起伏のある土地に建てられた学舎は、多かれ少なかれ水平に均された土地の上にある。 学士会館横の階段道は土の斜面が迫る。 草木の無いむき出しの土の壁は、「70〜50万年前の地面の化石」を展示するスペースとなっている。 横長の説明板には、西条…

分岐の分岐

道しるべが三方を示すとき、どこから来たにしてもどれか一つがもと来た場所を指すから、大抵残り二つの方向のどちらかが主目的で、もう片方は時間があれば行くような軽重の差がある。城めぐりなら隈なく歩くけれど。 もと来た道(とは限らないけれど)の麓に…

郡山城跡のベンチ

吉田の郡山城跡の場合、麓の見晴らしは南中腹の郡山公園展望台に任せて、山頂付近の主郭群へ向かう山道はひたすら林立する杉木立。 広めの空間は二ノ丸で、説明板の近くで腰掛けると背後の高まりが本丸跡。本丸に登りつめるとベンチもなく、とくに平坦でもな…

神辺城のベンチ

神辺城跡を歩いたときは草が生い茂っていて、城跡を見るというより単に山道を通り過ぎたような動線だった。鬱蒼とした本丸。 見晴らしの良かったのは、駅に近いほうの斜面の観音像あたり*1で、ベンチのある二の丸跡のあたりからは、木々の間から市街地が少し…

亀居城跡のベンチ

大竹市の亀居城跡(亀居公園)は海に近い小山なので、山頂部の石垣上からの見晴らしがいい。柵がしっかりと石垣の上を囲んでいて安全。 けれど天守台の上に座るところは見当たらず(たぶん)。その下の段、石垣を巡る園路には点々と平たいベンチが用意されて…

普通のベンチ

それら、山頂部付近の見晴らしの良い郭跡と異なり、すぐ下の周囲をめぐる郭群からは、遠くの山も見通せない。*1 でも門跡や礎石建物跡など、城跡を見にきた人にとってはただ通過するだけの平坦面しではないので、腰掛けて内側を眺める場所も欲しい。あるいは…

やや低い本丸

最高所の本丸は北西に突き出た部分が低い段になっている。 見上げると掘立柱遺構を示す杭が一応見えるくらいの高低差。 上段と下段が石積みで区切られたのは築城当初からではないという説明板がある。

遺構の中の方位盤

二棟あるうちの東側の掘立柱建物跡の中には東西南北を示した方位盤が設置されている。 駐車場が北の麓で、回り込みながら登るので山頂での方角がよく分からなかったりするが、遠くの山を示したパノラマとこの方位盤でだいたい把握できる。

最高所の建物跡

本丸最高所には二ヶ所の掘立柱建物跡が見つかっているので、柱の位置を示す杭と説明板がある。推定は「見張り所」で、それ以上の詳細は想像にとどめる環境。 説明文中の冒頭がなぜか埋めて削除されている。

散策案内図の大きさ

そのさらに手前の、駐車場に設置してある「小倉山城跡歴史公園散策案内図」はさらに大きい。 本丸中心の山頂部だけでなく、南側のしょうぶ園を通る道も散策路に含まれるので地図の範囲が広い。 その分、余白となる左上に本丸周辺の遺構の写真も掲載できる。

小倉山城跡の説明板

サイズは違ってもデザインは同じ。黒い台と赤いタイトルの帯。 麓の北側登り口では大きめの石碑と説明板が迎える。史跡整備後のくっきり見える曲輪跡の空撮写真が左半分にある。

更地の遠景

その説明板が立っているのは、屋敷跡の一部「江戸中期建築とされる長屋」のあった所。 更地になったことで前述のように説明板の要素は建物以外に重心が置かれ、実際の風景もその遠景に構える岩国城天守(模擬)の方をおさめたくなる。

屋敷跡の説明板

同じく吉香公園内に残っていた岩国藩の屋敷のうち、「旧岩国藩家老 吉川家屋敷跡」は平成23年に長屋が解体された。 跡地に建てられた説明板では、説明文の大半は代々家老を務めた「石見吉川家」が岩国にやってくるまでの事績、とくに鳥取城籠城の吉川経家が…

崩れた土手

広島城の本丸東側の土橋の一部が、過日の豪雨のあと崩れた。 広島城:石垣崩落 劣化が原因か /広島 - 毎日新聞 応急の土囊とブルーシートに保護された区域を緑色のコーンとバーが囲んでいる。(赤いコーンもある) 普段の石垣の上には柵も無くて、そういえば…

道の上か下が遺跡

砂防公園になった大通院谷の遺跡の説明板は谷の奥まったところの元就墓所に行く途中で目にすることになる。 墓所と清神社の間の道に、比較的近年調査された「酉谷地点」の鍛冶炉跡がある。こちらは見下ろす位置の斜面にあって、遺跡自体には近寄れないがフェ…

被爆地蔵尊

爆心地に近い浄土宗西蓮寺。不動尊霊場であるとともに道路脇の「被爆地蔵尊」が有名。見学者と解説者のグループが地蔵を囲む姿は毎日のように。 表面をなでさすられるのが地蔵一般の用途?だとして、被爆の痕跡としての石肌の異状を知るのは、独特の来歴とは…

市電の敷石の道

入船山記念館が開館(一般公開)した年の昭和42年まで運行していた呉市電。その敷石が入船山公園の園路に使われている。 入口からまっすぐの道が記念館へ、左手が美術館へ。

東海田の明飛

同じく所在地を「海田町三迫二丁目付近」と紹介される「西谷第一号古墳」。 こちらは串掛林道のすぐ下に位置して耕地や民家に近い。 昭和63年設置の説明板では、現在地を「海田町字明飛」と書く。三迫二丁目とは少し外れるものの、「明飛(あけび)」の範囲…

古墳の住所

海田町公式ホームページ > 歴史・文化・観光 > 文化財 歴史・文化・観光 > 文化財" title="海田町公式ホームページ > 歴史・文化・観光 > 文化財"> 歴史・文化・観光 > 文化財" title="海田町公式ホームページ > 歴史・文化・観光 > 文化財"> 海田町の文化財…

岩国城跡内堀

錦城橋を渡る前の位置に標識があり、岩国城まで600mという距離が案内されている、山上の天守閣までの直線距離だろうか。 岩国城の郭という意味では山麓の吉香公園も城跡なので、錦川を渡ればすぐの距離にある。 石橋や神社や博物館は、いかにも近代の城跡公…