環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

遺跡

道の上か下が遺跡

砂防公園になった大通院谷の遺跡の説明板は谷の奥まったところの元就墓所に行く途中で目にすることになる。 墓所と清神社の間の道に、比較的近年調査された「酉谷地点」の鍛冶炉跡がある。こちらは見下ろす位置の斜面にあって、遺跡自体には近寄れないがフェ…

被爆地蔵尊

爆心地に近い浄土宗西蓮寺。不動尊霊場であるとともに道路脇の「被爆地蔵尊」が有名。見学者と解説者のグループが地蔵を囲む姿は毎日のように。 表面をなでさすられるのが地蔵一般の用途?だとして、被爆の痕跡としての石肌の異状を知るのは、独特の来歴とは…

市電の敷石の道

入船山記念館が開館(一般公開)した年の昭和42年まで運行していた呉市電。その敷石が入船山公園の園路に使われている。 入口からまっすぐの道が記念館へ、左手が美術館へ。

東海田の明飛

同じく所在地を「海田町三迫二丁目付近」と紹介される「西谷第一号古墳」。 こちらは串掛林道のすぐ下に位置して耕地や民家に近い。 昭和63年設置の説明板では、現在地を「海田町字明飛」と書く。三迫二丁目とは少し外れるものの、「明飛(あけび)」の範囲…

古墳の住所

海田町公式ホームページ > 歴史・文化・観光 > 文化財 歴史・文化・観光 > 文化財" title="海田町公式ホームページ > 歴史・文化・観光 > 文化財"> 歴史・文化・観光 > 文化財" title="海田町公式ホームページ > 歴史・文化・観光 > 文化財"> 海田町の文化財…

岩国城跡内堀

錦城橋を渡る前の位置に標識があり、岩国城まで600mという距離が案内されている、山上の天守閣までの直線距離だろうか。 岩国城の郭という意味では山麓の吉香公園も城跡なので、錦川を渡ればすぐの距離にある。 石橋や神社や博物館は、いかにも近代の城跡公…

岩国城天主台

岩国城の天主台は天守閣の無い状態で復元されている。 柵に囲まれて石積みに近寄ることはできない。 説明板が新天主格に近いほうの柵前に設置されていて、発掘時の上空からの写真と石積み東面の復元構成図が載っている。 下3分の1ほどの緑色の部分が「現存…

土塁と暗渠

その復元台所の西隣には、庭園から流れてきた水路が堀へ通じる暗渠がある。 水路の手前の説明板に発掘時の石組みの様子が載っている。「石組の水路全景」と「蓋石を除いた状態」の写真、そして断面図。 土を盛って復元された現物からは暗渠の口の暗がりが見…

台所の窓

吉川元春館跡には、焼土のある土間を中央にもつ東西七間南北四間の建物跡が見つかっていて、台所跡との推定のもと復元されている。( 吉川氏城館跡―中世安芸の城と館 (日本の遺跡)p70)土塁の南端に近く、背後に水路が控えている。 かまどには入口から広く光…

クレーンと台

水面に降りる雁木のほか、少し上段に上がる階段もある。 アレイからすこじま 魚雷積載用のクレーンが当時の姿を保ったままモニュメントになっている。遊歩道の面から階段4段を介した台の上にある。 手前の繋留柱は白い。

倉稲神社跡

本現寺川近くの上佐々井、路傍に椿が一本立ち、小さな石垣の上に五輪塔などの石塔がびっしりと並んでいる。 狐ヶ城の案内と同じように、木製の角柱は昭和53年の設置。「御祭神」など書かれていた面はほとんど剥れている。 『ふるさとめぐり 伝説を訪ねて』(…

本地村の石室

『猿の国郡志』での項目名は「石室」と書いて「イハヤ」のフリガナ。石見の「志都か岩屋」などを傍証に挙げているところを見ると、この施設(実際は横穴式石室)のあるべき呼称として「イハヤ」を選択したのであって、「里俗」で一般的に使われていたとされ…

備北の一斑

庄原市に足を踏み入れたことの無い身でも、移築された横穴式石室を見ることでその地域の古墳にわずかながら接することができる。篠津原は庄原市高町、旧三上郡高村。 ということで、その名称と記述からして「火の釜」と似たつくりをしていたらしい「火塚」の…

移築の集まり

そういうふうに七ツ塚古墳群を巡ることで各種の墳丘の形状や埋葬施設の違いが実見できるのが風土記の丘散策の眼目の一つ。 そこまで足を伸ばさないでも、三十分前後の「ファミリーコース」で各種の移築施設を巡ることで古墳の埋葬施設三種類を続けて見られる…

東群の起伏

七ツ塚古墳群の東群は美波羅川近くの斜面上にある十数基。 分かれ道をたどると、まず東群最大の40号古墳の墳丘があらわれる。 案内図では墳丘の大きさが絵に表されているほかに、3基の円墳の埋葬施設に横穴式石室があったことも示されていて、いずれも南向き…

七ツ塚の形

最高所に位置するのが15号古墳で、その周りに大きめの9・10・11号が並ぶ。 15号を含めほとんどが円墳である中にあって、周りの3基が前方後円墳と帆立貝形古墳。 別の案内図では白塗りで円墳ほかの形を示しているので、方形部分の向きがわかりやすい。凡例で…

いくつかの塚

八ツ塚といい三ツ城といい二子塚という、墳丘がいくつもまとまった場所では数量を特徴とした一つの呼び名が定着する。 web検索するだけでも「一ツ塚」から「九ツ塚」までどの数も存在する。地名のみの場合もあれば古墳名もあり、中世近世の墓所や一里塚もあ…

中馬の古墳群

中馬村は、上入江と同じく現安芸高田市吉田町内に位置する*1。書出帳には「八ツ塚」が記録されている。 八ツ塚と申候而凡村の中程に腰林山之内塚御座候 いつ頃いか様の訳にて出来致し候哉相しれ不申候尤八ツは無御座塚形ち御座候分も当時は崩し居申候 只今弐…

井原の記述

現在は安佐北区白木町の井原は、吉田町の入江とは荒谷山一つ挟んで南に位置する。もとは同じ高田郡なのでいちおう「近村」。 井原村の書出帳には「塚」が村内各地にたくさんあるとして列挙されている。 一、塚弐拾壱ヶ所光泉寺上 壱ヶ所 奥行九尺 はば五尺 …

高田郡の石窟

現「貞丸古墳」は『芸備国郡志』に「西條石棺」のち改め「親王石棺」として載り、南方村の書出帳では「油塚」として報告された。その結果『芸藩通志』には「古壙 二所 官道の山麓にあり、石窟二あり、(略)」とまとめられた。同じく「石窟」として『藝藩通…

豊田郡の塚穴

現在はおおよそ三原市西部にあたる豊田郡には、「油塚」などの名を残す貞丸古墳*1や、「梅慶庵塚」と書かれた梅木平古墳*2といった、県内有数の規模の石室を備えた古墳が集中している。御年代古墳は近代の開口なので俗称が無いが、近世にすでに開口していた…

ほかの「人穴」三例

高宮郡の「人穴」三例の記述が似ているから、そのうち2ヶ所が古墳ならあと1ヶ所も古墳だろうという推定ができる。しかし他郡の例を見ると同じ名前でもバラバラの認識が集まるだけ。 豊田郡大浜村*1にも、古墳の石室を「人穴」の名で記載してある。 黄幡山人穴…

高宮郡の人穴

「給人原古墳群」は可部古墳群の中で西に離れたところにある。現状では墳丘と天井石を残してなおかつ開口しているものは1基のみ。 天井石や壁の高さを失うと、ただの凹みになって「人穴」とは異なる解釈に変わりそうで崩壊加減が難しい。小田の「湯釜古墳」…

大毛寺の人穴

上ヶ原神代人穴 数拾ヶ所 往古人住居仕候由 奥行五間 横九尺或ハ二間三間有之候片平ニ入口有之中ニ炭ノ粉杯有之何ツノ頃何人住候歟ハ相知不申左右奥ハ築地ニ而上ハ石畳ニ仕雨露漏不申候当時ハ野山又ハ百姓腰林ノ内杯ニ御座候 大毛寺村「国郡志御用ニ付下調べ…

青古墳群

「ひろしま昔探検ネット」(遺跡分布地図)の 遺跡分布地図 F-10 の範囲がちょうど「可部古墳群」を構成する各古墳群を収めている。東から「九品寺北・南古墳(旧称:九品寺古墳群)」「城ヶ平古墳群」「上ヶ原古墳群」「原迫古墳群」「青古墳群」「給人原古…

上ケ原の斜面

上ヶ原砂防堰堤*1から南へ流れる帆待川を境に、東に上ケ原古墳群、西に原迫古墳群が分布する。大毛寺と中野の大まかな境でもある。 上ヶ原で近年発掘されたのは標高134mあたりの第34号古墳。過去に確認された三十数基の大半は現在の可部6丁目の住宅地に含ま…

上ケ原の人穴

学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館 の、 「江戸時代の人が見た可部古墳群」(2011.5.13)という記事に「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」(大毛寺村)の「上ケ原神代人穴」が紹介されている。発掘調査によって寛永通宝が見つかった石室もあることに触れ、「…

古墳のお供え

古墳の石室が露出しているところに賽銭が撒いてある例というのはあまり目にしたことがないけれど、西谷1号古墳(海田町)の花や、御年代古墳*1の石棺上の小皿など、墓所への接し方の現れとしてお供え物が見られることはままある。 中国新聞アルファ 古墳と知…

岩の模様

自然観察とかアウトドアの文脈では古墳は取り上げられないだろうなと思ったら、そうでもなく。 龍王山の自然と遺跡 - 東広島市自然研究会 憩いの森を「地形と地質を中心に」見た時に、古墳に使われた岩石に注目が集まることになる。とくに新立1号古墳は「“捕…

花が迫古墳群

寺家村の山裾に散在した「火の釜」のうち、現状を確認しやすいのが「憩いの森公園」内の「花が迫古墳群」。 半尾川*1上流に広がる公園で、近世の村では寺家村と吉行村が接して入り組んでいる谷間。 公園の案内図では開口した石室が記号になっている。砂防ダ…