環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

「日本三景展」2 ぬきだし天橋立

またも青空文庫を使い、天の橋立の登場するあれこれを並べてみよう。もはや安易であるか。

特異な地形

見たことが無くても「橋立のようだ」という喩えは大体通じる。

天(あま)の橋立(はしだて)を股倉(またぐら)から覗(のぞ)いて見るとまた格別な趣(おもむき)が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶(たま)には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。
夏目漱石 吾輩は猫である

鮮紅の茨の実が滴り落ちた秘玉のようで、秋の空がその実の上であくまで碧く澄んでいる。もしこれで右手の入りこんだ平野が海だったら天の橋立という感じになるここの尾根だ。しかし、海であるより平野のこの方が変化があって私には好ましい。
横光利一 夜の靴

風土記以来の歌枕だから

当地ゆかりの与謝野家の人たちをはじめ、長塚節薄田泣菫

明治二十五年の春、久しくまからざりし丹後国の与謝に下りて。

与謝の海かすみ立つ日は浦島の釣のむかしもおもかげに立つ
国見るも限とおもへば与謝の海うらなつかしき天の橋立
見も聞きも涙ぐまれて帰るにも心ぞのこる与謝のふるさと
與謝野禮嚴 禮嚴法師歌集 與謝野寛編輯校訂

船下り船上りくる橋立の久世の切戸に慰まぬかな

 之は昭和十五年の春作者の試みた最後の旅行で、御弟子さん数名と橋立に泊つて作つた歌の一つだ。橋立は與謝野の姓の本づく所で特に因縁が深く、そこの山上には歌碑も建つてゐる。美しい水の上を遊船がしきりに上下する久世の切戸を見てゐれば厭きることもない。それだのに私は慰まない。あるべき人がゐないからである。それが因縁の深い橋立だけにあはれも深い。
平野萬里 晶子鑑賞

丹後舞鶴の港より船に乗りて宮津ヘ志す
眞白帆のはらゝに泛ける與謝の海や天の橋立ゆほびかに見ゆ

二十三日、橋立途上
葦交り嫁菜花さく與謝の海の磯過ぎくれば霧うすらぎぬ

橋立
橋立の松原くれば朝潮に篠葉(しのば)釣る人腰なづみ釣る
長塚節歌集 中

『天馳使の歌』は、『葛城の神』とともに、私が試みました叙事詩の中でも一番長い作物です。伊弉諾、伊弉册の黄泉つ比良坂の傳説と、橋立傳説と、比治山の羽衣傳説とを結び合せて、永遠の女性の慈悲を歌つたのがこの一篇の作意ですが、
薄田泣菫 詩集の後に

近世の著名人

蕪村が来たのは事実だけれど。

 松宇(しょうう)氏来りて蕪村(ぶそん)の文台(ぶんだい)といふを示さる。天(あま)の橋立(はしだて)の松にて作りけるとか。木理(もくめ)あらく上に二見(ふたみ)の岩と扇子(せんす)の中に松とを画がけり。筆法無邪気にして蕪村若き時の筆かとも思はる。文台の裏面には短文と発句とありて宝暦五年蕪村と署名あり。その字普通に見る所の蕪村の字といたく異なり。宝暦五年は蕪村四十一の年なれば蕪村の書方(しょほう)もいまだ定まりをらざりしにや。姑(しばら)く記して疑を存す。
正岡子規 墨汁一滴

 さて第三幕目。
 いよいよ岩見重太郎の仇討。天の橋立千人斬り。
 敵の広瀬、大川、成瀬の三人を助くる中村式部少輔(しきぶしょうゆう)の家来二千五百人――それを向うに廻して岩見重太郎一人、鬼神の働きをする――ところへ重太郎を助けんがために、天下の豪傑、後藤又兵衛と塙(ばん)団右衛門とが乗込んで来る。
中里介山 大菩薩峠 流転の巻

遊興の地

風景を愛でに来ただけじゃないのはどこの名所も同じであると。

けれども、さういふ思想が贋物にすぎないことは彼等自身が常に風景を裏切つてをり、日本三景などといふが、私は天の橋立といふところへ行つたが、遊覧客の主要な目的はミヤジマの遊びであつたし、伊勢大神宮参拝の講中が狙つてゐるのも遊び場で、伊勢の遊び場は日本に於て最も淫靡な遊び場である。尤も日本の家庭が下等愚劣なものであると同様に、これらの遊び場にもたゞ女の下等な肉体がころがつてゐるにすぎないのである。
坂口安吾 デカダン文学論

しかも雁八が聞いた噂によりますと、丹波小僧というのは藤六の甥どころではない。藤六が天の橋立の酌婦に生ませた実の子らしいという話で……」
夢野久作 骸骨の黒穂

おのれやれ万一思い通りになったらば、三日と傍へは寄せ附けずに、天の橋立の赤前垂(あかまえだれ)にでもタタキ売って、生恥(いきはじ)を晒(さら)させてくれようものを……という大阪町人に似合わぬズッパリとした決心を最初からきめていたのであった。
夢野久作 名娼満月

巡洋艦橋立

日清日露に参加した三景艦(厳島・松島・橋立)の一つ。

 吉野(よしの)を旗艦として、高千穂(たかちほ)、浪速(なにわ)、秋津洲(あきつしま)の第一遊撃隊、先鋒(せんぽう)として前にあり。松島を旗艦として千代田(ちよだ)、厳島(いつくしま)、橋立(はしだて)、比叡(ひえい)、扶桑(ふそう)の本隊これに続(つ)ぎ、砲艦赤城(あかぎ)及び軍(いくさ)見物と称する軍令部長を載せし西京丸(さいきょうまる)またその後ろにしたがいつ。
徳冨蘆花 不如帰 小説