環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

説明板「第六号潜水艇殉難顕彰碑由来」

鳥居の脇に見えるのは、境内にある「第六潜水艇記念碑」の由来を説明する文章。「第六号」が型式で「第六潜水艇」が固有の名称。
第六潜水艇(潜水艦)の経歴と遭難の概要はwikipedia:第六潜水艇へ。
文章の上部には佐久間艇長の姿と第六潜水艇のイラスト。「単殻式」の船体が水上に姿を現し、第六潜水艇の特徴の「通風筒」も描かれている。
全体に色が薄れているものの文字ははっきりと読める。

第六号潜水艇は、明治三十九年、わが国で始めて建造された排水量僅か五十七トン、水中最大速力三ノット、水上でも八ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。
すべて艇の劣勢は訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から第六号艇も、訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。しかるに、不幸にも明治四十三年四月十五日、呉港を出港した第六号潜水艇は、山口県岩国新湊沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下、乗組員十四士と共に海底に沈没したのであります。

以下、艇長の遺書や乗組員の行動が讚えられたこと、記念碑建立の運動が起こり、大正三年にこの鯛の宮に記念碑が立てられ、毎年四月十五日に式典が催されていることが記されている。