環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

広の三角州

賀茂郡広村の『国郡志御用書上帳』*1(文政二年)では、村内の川を「大川壱筋」のみとして、その大川が村内で枝分かれして海に注いでいるとする。

郷中ニ而二筋ニ分レ、又三筋ニ分レ末海中ニ入、西を本川と言東を中川と言、


その「本川」(広西大川)と「中川」(広東大川)に挟まれた三角州が「古新開」と呼ばれ、古新開からさらに沖へと干拓が進み、「四新開」「仙兵衛新開」「彌生新開」「武兵衛新開」が連なっていた(『藝藩通志』巻七十六、広村絵図の記載)。

ぱっと見気付きにくい「新開」と「新聞」の誤りは、「古新開」で起こりやすいのかもしれない。
また、同書上帳の「当村形勢生産之事」に、水害の多いことに触れている。

右大河なれハ年々砂流れ出川筋高くなりて古地方ハ水損多し、又大水ニ至れハ所々川岸堤等危く、村中之者向寄々ニ相集り是を防く事心力を尽せり、誠ニ後来水難之憂あり、

大正時代、広村に海軍工廠が置かれたことで都市計画の必要に迫られる。区画整理などとともに、黒瀬川の河川改修によって水害を防ぐことも計画に含まれた。用地買収等を経て昭和8年から10年にかけて改修工事が行われた。あわせて計画されていた東大川の埋め立ては戦後のこととなる*2

*1:呉市史資料編近世II』所収

*2:呉市史第6巻』第五章 広村