環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

賀茂郡の火ノ釜(ニ)


賀茂郡寺家村の書出帖の記述は以下のとおり。

火之釜 凡入二間幅壱間深サ六尺斗廻り石垣にして上に大石のひらなるを置く上古木巣穴居の遺跡なるか或ハ落人の隠家ともいひ或ハ人皇廿六代武烈天皇の御宇苛虐の政行ハれける故かやうにては後ハ火も降るべしと人〃いひけるを其時は民淳質にしてさもありなんと火を防がんために所〃に構ふともいひつとふ火の釜の跡當村ニも六ヶ所程御座候○又昔火の降るとて鹿島大明神の命ニて日本國へ觸サセ給ふゟ今も鹿嶌ゟこと觸の出ルよし申ものも御座候


「火之釜」の由来に三つの説が挙がっている。「上古木巣穴居の遺跡」「落人の隠家」「火を防がんために所〃に構ふ」。そのうちの三番目の説について詳細であり、末尾にはそれを補強するかのように「昔火の降るとて鹿島大明神の命ニて日本國へ觸サセ給ふ」という「鹿島の事触」が持ちだされている。
「火の釜」という呼び名自体が特殊な由来を連想させやすいのか、「こもり塚」を説明する場合よりも考察に費やす文字が多くなる。
地元にある遺跡について、「なるべく古いもの」「なるべくありきたりでないもの」「なるべく全国的な話題に繋がるもの」であってほしいと思うのは今も昔も変わりない。