環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

豊田郡の塚穴

現在はおおよそ三原市西部にあたる豊田郡には、「油塚」などの名を残す貞丸古墳*1や、「梅慶庵塚」と書かれた梅木平古墳*2といった、県内有数の規模の石室を備えた古墳が集中している。御年代古墳は近代の開口なので俗称が無いが、近世にすでに開口していた石室は「○○塚」や「塚穴」と呼ばれた。

本郷村の塚穴には盗掘とそれへの祟りのあったことが伝えられている。

江良谷と申所に塚穴と申、土堆き処有り、其内に小き鏡刀等数々、四五十年以前之事か賊有て盗取有り、大坂持登り沽却せんとするに、大に腹痛起り或ハ狂気する者有り、此器の主之祟ならんと恐怖して元之塚に納むと申伝候、今ハ鏡二面刀の折れ一ツ鎮守権現社内にあり、其外ハ深く埋おき候よし
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本郷村の東隣の小坂村も「塚穴」、または「塚」。

塚穴三ヶ所 水無田 畑苅 宮本 右いつれも両側石垣ニ而、上者大石ヲ以築キ、三ヶ所とも高サ七尺幅壱間弐歩、又壱間四歩位入込四間余、尤壱ヶ所ハ埋り入込ミ相知不申候、右俗ニ塚と申伝候、上古之墳墓ニ而も可有御座候哉
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「上古之墳墓ニ而も可有御座候哉」という推測は、「上代富貴の人の墳墓か」と記された「油塚」(親王石棺)と同類とみなしていたことを伺わせる。
現在からすると墳墓と見るのは当たり前の結論であるものの、他郡のような火の雨を避ける伝説とか住居の跡だとかいう推測の生まれにくい、特殊な状況が揃っていたからこそ辿り着く推測。