環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

昔の文化橋


菅原守編『藝州府中荘誌』に載る「縣社多家神社参拝記」は昭和5年多家神社境内の様子*1だけでなく、広島駅からの乗合自動車の車中から見える様子も記されている。

榎川に架かる文化橋は多家神社の川下に位置するので、榎川沿いの県道の左手に見えることになる。

水害前は僅に幅二尺許りの板橋であつたが、昭和三年十一月、小學校が此の橋を渡つて東北約一町の所に移轉改築せられ、堂々たる校舎が縣下稀を誇る様になつて、幅二間の欄干ある土橋の改築を見、新に文化橋と命名したのである

ここで言う「水害」は大正15年の安芸郡諸村を襲った河川氾濫のこと。*2