環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2007-07-01から1ヶ月間の記事一覧

藤杜神社

はてなダイアリーキーワードに、元春と隆景はあっても隆元が無いという、ありがちな(?)状態だったので、キーワードページを作ってみた。ダイアリーで言及がなくても他のキーワードと繋がればそれでいいじゃないかと。 さて、小早川隆景館跡は現在藤杜神社が…

「隆」を「高」に

「毛利隆元」を「毛利高元」に誤るのは意図しない例で*1、 「小早川隆景」を「小早川高景」と書いたのは*2、原典の題名がそうなっているのなら仕方がない。別人といえばそれまで。 *1:知名度が低いのでサンプルが少ない。もしくは知名度が低いから誤変換が起…

「賢」は難いか

大内義隆や小早川隆景の「たか」が読み違えられることはないが、 陶晴賢の「かた」の場合、 "すえはるかた" 960件*1 "すえはるたか" 68件*2 という検索結果になる。 「大内義隆」と「賢」の誤読が絡まったものか、「陶晴隆」の表記も14件現れる。同様に、 建…

説明板諸相 厳島合戦配置図

要害山(宮尾城跡)にある「毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡」の説明板には合戦の地図が付いている。 凡例には、毛利軍を黄色で、陶軍を水色で表示すると決めているものの、陸地の軍勢はみな黄色で、進路と水軍だけが水色となっている。これでは勝てない。 そし…

宮の城から五重の塔

猫もいるので、みゃーの城です。弘治元年*1の厳島合戦で宮の城に拠っていたのが毛利勢、上陸して塔の岡に拠ったのが大内勢の陶晴賢。 大内義隆から「隆」の字を貰って「隆房」であったのを、大内義長(大友晴英)から「晴」を貰って「晴賢」に。多くの子供が*2…

甍の波に伊勢の湯煙

厳島の要害山にある今伊勢神社。存光寺の隣から石段がまっすぐにのびている。 由緒書きに 昔は石段下の存光寺で例祭の十一月一日に湯立神楽が勇壯に舞われていましたが現在は祭典のみおこなっています とある。 「湯立神楽」で検索していて、 ひろしま文化大…

禅門のにゃんこ、習わぬ管弦を頓悟

曹洞宗存光寺*1の門前に坐る猫。 カメラを向けても泰然自若としていた、ようなそうでもないような。 *1:厳島

「かう」も「くわう」もひっくるめて一如

つづき。 「光禅寺」と検索すると「聖光禅寺」も含まれるので、「○禅寺」の件数は割り引いて考えないといけない。が、「前・全」よりは多いことに変わりない。ただ「善」よりちょっとクセがあるだけだ。 「こうぜんじ」で実例の見えた四つの組み合せ 「禅」…

「こうぜんじ」の表記あれこれ

同じ郡山城興禅寺の寺領でも「興禅寺村」と書かれたり「光善寺村」と書かれたりした*1。 では他にどういう表記の「こうぜんじ」が実在するか。 google検索結果の多い順に並べると次のよう。寺院の多寡ではないが目安として。 検索件数*2 表記 所在地の一例 8…

興禅寺を公園に

メンテナンス中ということで、広島ブログのバナーを一旦外す。(復旧後、戻した) さておき。 郡山城跡の山裾に広がる郡山公園はもと臨済宗興禅寺のあった所。毛利元就の庇護を受け、後に広島に移転。 大正四年に公園として整備された。 石碑には「御即位記念 …

旭光仰ぐ記念樹

その石碑*1の片面には「御即位記念樹 正三位勲一等男爵加藤高明書」とあり、その裏面には「大正四年*2十一月十日 己斐町」とある。この年の著名人は揮毫の依頼が殺到でてんてこ舞いでしょうか、きっと。 注連を張った記念樹は旭山神社*3の境内、稲荷神社の隣…

文字抜粋「斐」

「悲」や「翡」はそうでもないのに、 「斐」の字を書くのは難しい。 写真は、よさそうな例。 どの要素も控え目に、武張ることの無いように。

己斐わたるべき

福島川と山手川を越えて三角州から脱出すると己斐(西広島駅)にたどり着く。 広島市内を横切る国道2号線は、今よりもう少し北にあったので、駅前も国道だった。 ……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄(せんりつ)を呼ぶものはなくなった…

京浜国道の描写

国道2号を東へ、さらに東へ行ったあたり*1 職業的作家の大多数は都会に住んで、都会的な文学を生産している。従って、文学における自然の範囲は、街頭、公園、近郊に多くとどまっており、あるいは通俗小説の場面としては落すことのできない近代スポーツの背…

芸備の道を古往今来

広島市中心部から始まる国道54号線を北上。 可部・上根・吉田・三次を*1中継すれば『街道をゆく』の追体験だが、敢えてそれ以外の場所について思いを巡らすのもよい。 「神戸・横浜散歩ほか」の「ほか」の方にある。 *1:うろおぼえ