環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

可部分院周辺

可部や戸坂・五日市辺りが、市街地から物品を疎開したりする要地で、 さっきの3巻から遡って、今度は『広島原爆戦災誌』の1巻をDLして、まずその139頁。 本土要撃作戦に備えての、総兵站病院の「戦傷兵収療計画」でもあった「防空救護計画」の諸対策が、はか…

友貞神社

旧国道に面する八幡宮。「友定」とも。 所在地の「上中野村」は、明治に近隣の村と合併して「中原村」になる。 昭和17年、「中原村」は、村内に島のようにあった「可部町」と合併して新「可部町」となった。 「友貞神社」で検索すると、昭和46年発行「広島原…

友定の地蔵

こちらの地蔵は四体、みな同じ姿。 路傍にぽつんとあるだけでなく、神社の境内の片隅に祠がある。ほこらしげに、いやまあ。 さっきの地蔵は可部町中野の南端あたり、旧村の境。こっちは中野の北辺の友定*1。神社の北には他の村の飛地があったりするような、…

地蔵三躰

ブロック塀の小祠の中。 とりどりの形をした石像が、表彰台のように高さを違える。 そしてこの地蔵のある住所は、安佐北区可部一丁目。 付近に「大毛寺(藤の森)取水場」とあって、地名としては「大字中野字藤の森」となる。さらに細かくは「中河原」か。

五輪塔集積

地蔵堂の前に並んでいる五輪塔は、もとは今とは違う位置で、五輪の形をもっていたろうけども、近くの太田川の動きもいろいろあって、河原の道路も太くなったりで。 月日が経って散らばったものを集め直したこの形が、今現在のこの地蔵堂の要素になっていて、…

五輪塔

見回すと多くの墓石は大きめの五輪塔。 表に戒名が刻んであったり、「妙法蓮華経」だったり梵字だったり。 中には下から「地」「水」「火」「風」「空」と、分かりやすいものも。

元就の曾孫

吉川家墓所の山際。右に吉川広正、左に竹姫。 正面に戒名が一行真っ直ぐに刻まれている、が、プレートの方を読んで確実を期す。 吉川広正 Hiromasa Kikkawa 2代藩主 2nd lord 戒名 浄性院殿前倉部鉄堂宗閑大居士 没年 寛文6年(1666)5月5日 享年66歳 萩藩主 …

「吉川広家展」

ぎりぎり会期中、か。 場所:吉川史料館 期間:3月13日-6月15日 展示資料:全期間あわせて33点 関ヶ原前後の文書がいろいろあって、まさに渦中の人 「徳川家康書状」慶長5年 「黒田長政書状」慶長5年 「吉川広家書状案」慶長6年 8箇条にわたる申し開き 毛利…

墓石のそばの説明板

それぞれ墓石のそばにプレートがあって、ここでは 吉川広家 Hiroie Kikkawa 初代藩主 1st lord 戒名 全光院殿拾遣補闕四品中岩如兼大居士 没年 寛永2年(1625)9月21日 享年65歳 としるしてある。 wikipedia:吉川広家見てみると、従四位下の侍従とあるので、そ…

山に進むと

いくつもの墓石や塀の入り組む先に、山の上に通じる道があって。 立て札の指示するところは、十二代経幹、初代広家、十三代経健、六代経永の墓に至る、らしく*1。 初代吉川広家の墓石のそばには「みみずくの手水鉢」が立っている。 *1:そんなにいたかな

吉川家墓所

墓所に入ってすぐの納骨堂の門は閉まっている。墓石への参道は納骨堂を右手に見ながら続く。 墓所はwikipedia:洞泉寺(岩国市)寺域内にある。 説明板には 墓所内には、6代藩主経永を除く藩主の墓と妻子の墓や石灯籠・手水鉢があり大名の墓所を知る上での貴重…

器用な姿勢と九曜な紋と

岩国吉川家墓所。奥に見えるのは納骨堂。 堂を囲む柵の上に乗っている猫。それなりに太い棒なのか、この体勢で落ち着いていた。 といった姿を既にh:keyword:猫の方に載せてしまっていたりして。 使い回しとはいえ、はてなユーザーじゃない人がはてなハイクを…

桜眺めるベンチ

ベンチの下端をのぞくと「寄贈 岩国桜ライオンズクラブ」とある。 こういう姿勢で座るとよく見える、らしい。

観光地での

錦帯橋を渡った先が吉香公園。 手前の半身はおいといて、 奥の立て札は岩国市観光課の注意書き。 捨て猫・捨て犬は犯罪行為です!! 猫が可愛いからといって無責任に餌を与えないで。 という二つ。

海食崖の猫

元宇品の西側海岸を歩く。陽射しが強いなか、影を作るのは樹か岩か。 そろそろ帽子がいるか。