環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2008-09-01から1ヶ月間の記事一覧

階段と手すり

鉄の玉垣 のような、境内をステンレスが囲繞する神社はあまり見かけないものの、階段にステンレスの手すりが付いているのは至極当たり前の風景。 前項のようなだだっ広い階段だと、真ん中に何もなかったら下りるのに難儀する。この尾崎神社*1の場合は、手す…

大階段

多家神社の参道は長く広いまっすぐの石段が特徴的。交差点の陸橋からよく見える。 前出『藝州府中荘誌』にも、 正面の大鳥居には、幟仁親王殿下の書になる多家神社といふ金文字の額面掲げらる、此鳥居をくゞりて、七十八階の石階は幅二間餘もあらん、規矩整…

誰曾廼森

延喜式神名帳に載る多家神社の所在地が不明になって近世に至る。その流れを汲むという松崎八幡と総社が互いに譲らず、明治六年に両社合併してこの誰曾廼森(たれそのもり)の地に社殿を築いた。 説明板に云う。「神武天皇が当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねにな…

多家神社の入口

その二年後、明治四十二年に建てられた多家神社*1の標柱も東久世通禧の書。 天満神社のものよりも彫りが浅くて印象がずいぶん違う。 この誰曾廼森の地が神武東征に関わる地ということもあって、碑文の 「列イ舞*2攘賊聞歌伏仇」「即覚夢而敬神祇矣」 は、『古…

天満神社の標柱

一千年祭の四年後、明治四十年に建てられたしめばしら。 向って右の柱の裏面に「枢密院副議長兼議定官正二位賜桐花章伯爵東久世通禧書」と、四メートルの高さをうめつくすように書かれている。 右の文章(下の写真)から。 一文字目が「胎」だと「はらむ」で、…

菅公一千年祭紀念碑

天満神社境内の背高な平たい紀念碑は「陸軍中将從三位勲一等功二級男爵山口素臣」の揮毫。 隣の平成六年の説明板に、 (略) 明治三十六年三月二十二日より六日間にわたり盛大に菅公一千年祭が挙行され御輿小町白神社御旅所に渡御還御あり (明治四十二年編) 昭…

個々の奉納

場所は変わって平和公園南の天満神社。 広くはない境内に石碑などが立ち並び、原爆の破壊以前の大社の名残を見せる。 そこに新たに募るのが玉垣奉納。ここの場合は「一基拾五萬円・親柱一基弐拾五萬円」とし、「お名前の他に十五文字まで裏面に彫刻すること…

胡神社の玉垣

土橋町の本川浜胡神社は堤防の上に南面して鎮座している。 境内を囲う玉垣は奉納者の名が刻まれていて、上部に紋があり、右端に肩書きが「仲買人」などとある。 それらの団体として、奥の石には「廣嶋米綿株式取引所 仲買人中」とある。

本川の雁木

川岸に降りるには護岸の石垣の間に設けられた階段(雁木)を通る。この階段の付近には鋳物の常夜灯と胡神社がある。 江戸時代には本川の西岸、本川橋北部を塚本町*1といい、南部は西土手町*2・西地方町*3と連なる。舟運の便により商家や旅宿が賑わった。 参考 …

河原の巣穴

潮のひいた本川の岸を見ると無数の蟹と巣穴。 降りて近づこうとすると素早く穴に戻る。

雨後の蟹

普段、カニの歩いていないような道端でも、夕立のあととかに慌ただしく動き回っている。 木々の間の地面にも、いつもは見かけない巣穴があちこちに見える。

才蔵寺のミソ地蔵

広島市東区、可児才蔵を開基とする才蔵寺。 「かにさいぞう碑」を護るようにミソ地蔵が居る。ミソ地蔵の利益として「脳病全快・智能啓発・進学就職・願望成就」と刻まれている。「願望成就」なので、もうだいたいのことは。 才蔵寺の紋は「丸に二枚笹」。像…

元宇品の地蔵堂

南区元宇品町の東側、幹線道路のそばに公園と地蔵堂がある。 正面上部に板が掛かっている。「大宝」「廣佛」の語と、その間に地蔵をあらわす種字「カ」が彫られている。

火伏地蔵正面

真新しい祠堂に石の地蔵が据えられて、賽銭箱や掃除道具に生花と仏具が整然と。 幕には平成十九年五月と見える。 庇の下の壁には三階菱の紋所。

岩国の火伏地蔵

錦帯橋の手前の大明小路。 このあたりに武家屋敷が建ち並んでいたころ、真言宗金正院内に火伏地蔵が勧進され、信仰を集めた。 金正院の移転後も児童公園内に地蔵堂が設けられ当地に残った。 公園の名前自体は椎尾神社緑地。