環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2013-09-01から1ヶ月間の記事一覧

さくらバスのバス停

廿日市市 / 住まいとまちづくり / 自主運行バス / 自主運行バス 旧廿日市市域の循環バス「さくらバス」はバス停頂部に五弁の桜のマーク。 時刻表は赤と青の色分けで西循環と東循環をくっきり分ける表示。 他の路線バスの停留所と兼ねる場合、柱の天辺の円板…

市章と市の花

「廿」の字を丸く図案化したものが廿日市市の市章で、道路標識中に市の施設を示すアイコンとしてあらわれる。 市の花の桜は「はつかいち文化ホールさくらぴあ」のロゴとして使われている。五弁の桜が波打っているような、二重になったようなそんな小片。

廿日市市の空気弁

廿日市市になってからの蓋。新しい方ではあっても二十数年の幅がある。新しい方は青い地に桜の模様が浮き上がる。 共通するのは、用字が「空気弁」で、中央に市章「廿」が入ること。

廿日市町の蓋

「海軍水道」ほどに古い設備を目にする機会は少ないとしても、廿日市市が市制をしく前の「廿日市町」が水道の蓋に見えたりするのは分かりやすい古さ。 「制水弇」「空気弇」など、「弇」(エン)の字が目につく。廿日市町に限らない。 東京都水道局 - 路上文…

蓋に錨

同じく入船山公園内に保存されている「軍水道防火栓」。 上段に「海軍水道」、下段に「防火栓」、中央に錨の印。桜はない。

錨の上の至誠

入船山公園内にある小さな四角錐状の石碑。コンクリートか。 上の石には「至誠」、下の石には錨と桜の紋章が刻まれている。 傍らの立て札は昭和42年のもので、この石碑の来歴を説明している。石碑が建てられたのは昭和19年で、呉軍港第二門の衛兵所、現在の…

錨の姿勢

大和ミュージアム入口近くには戦艦陸奥の主錨がある。堺川の大和主錨と同じような立て掛ける形で背後に重なる鎖も重厚。 大和波止場には呉うるめライオンズクラブ寄贈の大和主錨。広さに余裕があるからか、浅い角度でもたれかかる。

錨坐すよ

それを偲ぶ現物が残っていれば、部品であれ図面であれ保護されつつ展示される。野ざらしでも平気な物品なら野外に展示されるが、路面電車とかは月日が経つと傷んでしまう。 現物が無いとか貴重とかで複製が可能なら、それをもって屋外に展示して広く見てもら…

大和の記念塔

ドックを偲ぶ現物には階段が保存され、海中に没した戦艦を偲ぶには文字情報を集めて塔に掲示するという形を取る。 艦橋を模した「噫戦艦大和之塔」も、左右に置かれた主砲徹甲弾(長門と大和)も、塔に上る階段もみな由来や事績を読んでもらうための舞台装置…

船渠の階段

歌碑の道路向かいには、錆の色が染み付いた石積みがある。8段ほどの階段の中ほどに定礎板が見える。 「造船船渠 起工 明治四十一年十一月 竣工 明治四十四年三月」とある刻字で、この石積みがその船渠の一部だとおおよそ見当がつくけれど、さらに詳しくは傍…

歌碑の白黒

歩道橋のそばに立っている石碑は、平成2年建立の渡辺直己の歌碑。 ほそぼそと虧けたる月に対ひつつ戦は竟に寂しきものか 経歴を説明する文章は、白い台座の中に嵌めこまれた茶色の部分。石の模様が目立って字が読み取れないかと思ったが、意外とくっきり見え…

公園を区切る手すり

公園の入口自体はぽっかり開口していて、その隣には柵が連なっている。隙間はあるから入れないこともないけれど、そのまま進んでもモニュメントにぶつかるばかり。 この柵は外の道に対して平行に並んでいて、しかも少し坂道になっているので手すりの用を兼ね…

公園入口の両脇

カラーコーンを棒でつないでいると、簡易的な手すりにも見える。が、わざわざ触るものでもない。 京口門の公園入口にあったゲート(入って回転させて出る)の設備が故障したことによって回転部分がとっぱらわれてカラーコーンが保護していたという状態。

琴比良神社の手すり

市街地の平地の中にある神社で、数段しかない入口の段差にも手すりがあると移動を助ける。 東平塚町の琴比良神社は、入口がすぐ道路に面していて向かいが公園。 下りる際には手すりの存在が段差の存在を気付かせてくれるかもしれない。

参道の手すり二種

その先の急勾配の階段には、両側と中央の三ヶ所に手すりが付いている。 外側は昭和50年、中央は平成13年の寄進。見た目にも新旧のさがあって、26年の差ではあっても、石碑の様式が合わせてあるので同時代の出来事といった感じ。

廣島電燈

その明治44年の石燈籠は三つの台石に乗って高々とある。正面に最上部の台石に「廣島電燈株式會社」とある。 ひろしま文化大百科 - 旧亀山発電所 同時期には村内(亀山村)に「亀山発電所」が建設中で、翌年竣工する。 「廣島電燈」は中国電力の前身のひとつ…

明治44年の石

その説明板には「因みに」と続けて、鳥居の近くにある注連柱・手水鉢・石燈籠は明治44年の寄進で、平成23年がちょうど百年であったとも記す。 それぞれの石の側面に「明治四十四年十月吉日」とまっすぐな一行が刻まれている。石燈籠のくびれの曲面にも「明治…

正徳二年の鳥居

同じく文政2年の『国郡志御用につき下調べ書出帳』には、宝永3年*1の氏子12ヶ村による再建棟札に「惣社八幡宮」とあると記す。他の時期の棟札もあったのだろうけれど、可部地域の総鎮守としてそう呼ばれていたという実例として挙げられている。 参道階段途中…

白石山

両延神社は白石山の上に位置する。 大毛寺村の「国郡志御用につき下調べ書出帳」に載せる由緒には、武田朝信が下四日市村に八幡宮を勧請したことに始まり、「建長五年癸丑九月二十九日武田伊豆守信時白石山ニ奉遷御再興ノ由」とされる。 盆地の向かい*1から…

両延橋

そこから梅林を左手に大毛寺川を渡る。架かっているのが「両延橋(りょうのべばし)」いかにも参道の趣の擬宝珠で飾られた平成13年のそこそこ新しい欄干。 赤くはないけれど、草戸稲荷の「稲荷橋」*1や地御前神社の「外宮橋」*2と似ている。 *1:http://d.hat…

両延神社参道への入口

光西寺観音堂の傍らに立つ石燈籠。大毛寺川を渡って神社方面へ向かう道に面して「献燈」の二字。 「大毛寺氏子中」と「々青年團」による大正7年の奉納。「年」の字がとてもジグザグ。

近所の店舗変遷

光西寺観音堂は平成5年に改修工事が行われている。 芳名板にずらりと並ぶ個人名、の中に「満願寺薬師」や近所の店の名前で載っているものもある。 「(株)ユアーズ(マックス亀山)」のように、企業は現在もあっても地元の店舗としては現存しない場合も。 …

光西寺観音堂

大毛寺村*1の「国郡志御用につき下調べ書出帳」には四カ所の寺跡が載っていて、いずれも「福王寺抱」の茅葺きのお堂が残っていた。(光西寺跡・満願寺跡・長福寺跡・大毛寺跡) そのうちの光西寺観音堂は、もとは大毛寺川西岸丘陵上にあったのが移転していて…

満願寺薬師堂

四日市の北西が大毛寺*1で、こちらにも薬師堂がある。傍らに五輪塔が固められ、桜の木が植わっているのも似ている。 もとの位置より北に移転し、国道191号の「福原団地入口交差点」の丁字路付け根に納まっている。コンパクトな安定感。 *1:どちらも安佐北区…

河戸杉薬師の縁起

ある時、一夜のうちにこの杉の大木が失せたので近くの里人が行って見ると、大木が数々の仏像となり、杉の切り口には松の枝が一本さしてあった 行基作の仏像と伝えるだけでなく、もともとこの地にあったという杉の木が仏像の材料として結び付けられている。 …

薬師堂の桜

その交差点のすぐ南が踏切(現在はアスファルトが覆う通常の道路)で、南への道が太田川河川敷に至る。 その途中の路傍東側に「杉薬師」のお堂がある。春には桜の花が歩道に溢れ出る。

交差点の拡張

近い将来に可部線新駅の沿線となる予定の県道宇津可部線。国道54号と交差するあたりは歩道が両側にあって幅が広いが、広島北税務署以西は昔からの歩道のない道が続いていた。*1 税務署角の交差点にまず信号が仮設され、幅の広がった道に歩道と進行方向別の車…

予告の見せ方

行事のために前もって通行止めの期間や日時が決まっている場合、立て看板がその予告をする。 「通行禁止」とか「通行止のお知らせ」が大きく表示され、その次に大きく日付と時刻が強調される。日時が見えないと、看板が立っている時にもう通行止めになってい…

半分養生

福王寺南斜面のとある道。通行止めの看板が右手の道への迂回を指示する。 看板を縁取るクッションは道路側の左半分だけに付き、通行止めの一時解除の時には「規制解除」が重ね貼りされる。その養生テープは少し長めに「工事中」の文字をも隠す。

往来の看板角あて

よその工事現場の看板でも黄色で縁を包む例がそこかしこに。 看板のある場所自体は現場の外で、行き交う歩行者が接触してしまうかもれしないし、背の低い看板だとことさらに角を触りたがる子供もいるかもしれない。 置かれる場所も単に歩道の脇というだけで…