環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2014-02-01から1ヶ月間の記事一覧

街道の梵鐘

海田市の一里塚跡の180m東には真宗明顕寺があり、その間の街区が「稲荷町」。 鐘楼の真下の路傍に「銅製梵鐘」の説明板がある。昭和63年設置の説明板の下に、「西国街道・海田市ガイドの会」による道しるべが加わった。 一里塚近くに住んだ鋳物師植木源兵衛…

昭和56年3月吉日

同じく旧街道沿いを広島方面に少し行くと一里塚跡。塚そのものは大正10年に撤去されている。 安芸ライオンズクラブによる「旧山陽道海田市の一里塚跡」の記念碑は「昭和五十六年三月吉日」設置。現行暦の三月というと年度末のイメージが付随する。旧暦三月は…

参詣道入口

大師寺の入口は県道151号(旧西国街道の一部)に面した路地から始まる。 「弘法大師参詣道」と刻まれた石碑は「明治三十四年旧三月吉日」の建立。「旧暦」ではなく「旧」であらわされるあたり、新暦が定着していない、または旧暦が身近に使われていた時代。

大師寺の参道

寺社の参道の階段は、多くは手すりが追加されていてその形も配置もさまざま。*1 ここの場合、もともと曲折の多い道のところ、樹の幹がせり出している部分ではそれをよける形で手すりが続く。 脇道などがあると手すりは途切れるが、階段の始まりには杖も用意…

霊場と登山道

工事中の境内の先にはさらに階段があり、三階建の毘沙門堂と、その墓地・奥の院・日浦山への道となる。 目の前の毘沙門堂に参って海田の町を眺めるもあり、「御本尊の台座の中に各霊場のお砂を奉安」した奥の院に参るもあり。山を登るだけならまだそれほどの…

大師寺の仏足跡

海田町の大師寺は広島新四国八十八ヶ所霊場の35番。石段を登って工事の足場をくぐった先に、まず修行大師像と向き合う。 像の足元には仏足跡があり、石の下に善通寺と高野山奥の院の砂が納められている。「履物を必ずぬいで御足跡を踏みお大師さまとご縁をお…

なでられた凹凸

大師堂のロウソク線香の隣、柱に掲げられた板に「なで大師」の像。 「お大師様をなでて利益を頂いて下さい」ということで、浮き彫りの大師像の顔から肩にかけてとくに光沢が出ている。 寺内のほかの場所では仏足跡があり、靴を脱いで上がるもの*1と、掲げら…

大聖院の大師堂

大聖院内の大師堂には大きく「大師」の額、垂れ下がる数珠、その傍らに「ろうそく」「せんこう」「おみくじ」を数十円で。 大師堂に対しては手前の六角の燈籠内に立てるし、周りにある「稚児大師」「一願大師(秘鍵大師)」にもそれぞれ立てるところがある。…

昔の火

不消霊火堂の「消えずの火」も、弘法大師に由来するものとしているので「1200年」と書かれる。英文つき。 献燈のためのロウソクと線香は「不動明王」「心願」を冠した商品名。単に「ローソク」とも。日焼けか何かで赤茶けていて、ずいぶん昔から置かれて…

巡錫の求聞持堂

弥山の山頂手前には、弘法大師が修行したと伝える求聞持堂。「付近には原始的な磐座信仰の対象とみられる巨岩が多く、これに習合した真言密教の遺跡が少なくない」ということで、古くから誰かしら修行に訪れたのには違いない。 ここに限らず、修行者が「大師…

杖つく祖師像

三瀧寺の「各宗祖師之庭」は「原爆四十年死没者回向」と「世界平和開顕祈念」の為につくられた。たくさんの句碑に囲まれた段に、左から空海・日蓮・道元・親鸞。 各人の特徴は面立ちだけではなく、杖や数珠に端的にあらわれる。

修行大師像

緑井の毘沙門堂が広島新四国八十八ヶ所霊場の第十九番。二十番が亀山の医王寺薬師堂*1。本尊の由来を行基に遡らせることで共通する。 でも毘沙門天境内に立っているのは大師像。 医王寺のさらに北、福王寺山上の福王寺が二十一番。 燈明杉の奥、大師堂の下の…

福石の上

権現山の登山道途中ということもあってか、海抜210mという標示のある毘沙門天本堂。 本堂のある段上にも、いくつもの像や祠があってお供えもそれぞれに。 平たい岩の上にも賽銭が撒かれているが、この「福石」には「石の一番幅の広いところに両手の中高指の…

石の上の円

初寅大祭ともなるとその参道は大行列で、脇の地蔵や福神に人のいない時も少なく、くまなく眺めるということも難しい。 岩の上に置かれた福神の小さな像にも賽銭が撒き広げられ、狛犬の平たい背中にも小銭が置かれる。 もちろん賽銭箱があるところもある。 関…

毘沙門天の六福神

複数の寺社に同時に置かれれば七福神で、緑井権現山の毘沙門天のようにもともと一神が祀られている所に加われば六福神。 鐘楼から本堂までの参道に、恵比須・布袋・寿老人・福禄寿・弁財天・大黒天の順で石像が置かれたのが昭和40年代前半。 「昭和四十年代…

七福神めぐりの道

河野小石の墓所は瑞川寺(現聖光寺)*1。饒津神社と同じく「二葉の里歴史の散歩道」の一部。 散歩道の一部、二葉山山麓の寺社七カ所に七福神像が加わったのが平成18年ごろ。新しいといってももう六年以上。当初とは石の色合いも変わっているのかも。 饒津神…

碑の道

西日を背にするその記念碑には、中央の参道からの石畳が導いている。 碑の内容を説明する立て札が立てられたのは最近のこと、といっても平成20年ごろか。境内奥にさらに三基の石碑が並んでいて、それぞれ同じく立て札で解説されている。 広島藩の儒者三名、…

饒津神社の西陽

歩兵第十一聯隊による「明治三十三年北清事變忠死者記念之碑」は饒津神社境内の西寄りに立ち、京橋川沿いの道からよく見える。金鵄? 建立は事変(義和団事件)の翌年七月、粟屋幹大佐の肉太な揮毫。 佐官の人の書の記念碑はあまり見かけないなと思ったけれ…

吉田茂の字

尾道市街を見下ろす千光寺山の中腹の、もと忠魂碑の「英霊の塔」*1は吉田茂の揮毫。名前の下に二文字くらい見えるが何だろう。 すでに見た例では竹原市の池田勇人像の題字に「内閣総理大臣 池田勇人君」がある。そちらは横書き。 どちらにしても、払いの線が…

寛政の供養塔

記念碑の手前の石仏は「寛政十一己未三月…」の年紀のある供養塔。 正面の窪みの中には「法界万霊」の刻字。 現行の形との違いが目立つのは「界」の下半分と「霊」(というよりは「靈」)の下半分。「万」の字は百万一心でおなじみの「一力」。 関連 石碑の省…

善根寺収蔵庫落成記念碑

収蔵庫の傍ら、石仏の奥に並ぶ二基の石碑。台座が高いので収蔵庫の高さと釣り合っていて埋没しない。 密集した字の「善根寺収蔵庫落成記念碑」の揮毫は当時の「三原市長 長尾正三書」。ウィキペディアでは「三原駅」の項にのみ記載のある市長。てっきり「三…

善根寺の収蔵庫

善根寺 収蔵庫|神社・仏閣|広島県三原市観光情報サイト 「収穫庫には、県下では3ヶ所しかない20数体の仏像が収まっており」と、三原市小坂町の善根寺も平安期の仏像を多数保存していることで知られる。 南北に開けたなだらかな谷にあって、耕地や民家の合…

仏像の収蔵庫

麓の案内板にあるように、文化財の展示施設としては「歴史民俗資料館」と「古保利薬師収蔵庫」の二ヶ所が並んでいることになる。 北広島町 古保利薬師収蔵庫・千代田歴史民俗資料館 資料館で入館料を払い収蔵庫の扉を開けていただく、という流れなので、やは…

古保利薬師の階段

山の麓から大檜の隣までは木の路段が林の中を抜ける。 そこから先は案内図にあるように、仁王門のある段と収蔵庫のある段と、その中間の段の三段がある。(奥の神社のある段を含めると四段)さらに収蔵庫の入口も階段の上にある。 正面の道は石垣と階段で区…

古保利薬師の大檜

千代田町の古保利薬師には推定樹齢千年を超す大ヒノキがある。 境内図の正面入口脇に上から見た図では切り株のような絵だけれども、樹高は30m以上。目廻り周囲5.8mという太さが描かれている。 地上六メートルのところで六枝幹にわかれていたが、台風・雷等で…

境内の切り株

安佐北区三入の観音寺*1。 境内には木々が生い茂りつつ切り株もいくつか。 幹と切り離されただけでなく、八方に広がっていた根の元も切られている。 その隣の切り株はてっぺんにびっしりと苔がまとわりつく。どのくらいの年数でこうなるだろう。 *1:http://d…

遺跡の切り株

山林での造成工事やそれに先立つ発掘調査の際、生い茂っていた木々は当然伐採されて取り払われる。 あらかた遺構が露出しているような説明会の場でも、ところどころに切り株が残る。 切り口が水平なら物を載せたり足場になったりするだろうし、立て札をやロ…

伐られた残り

太田川に沿って阿武山の麓を通る県道は、安佐南区の北の端。八木用水上流部も並んでいる。 用水と県道の間にはフェンスがあって、雑草や雑木が取り払われる前はおそらく用水の流れは見えにくかったのだろう。 切られて間もない切り株が白く点々と見え、フェ…