環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧

「魚」関連

その階段脇の灯籠は「原町魚中買」の奉納。 境内社の渡守社前の灯籠は「魚荷中」による。 港町の神社らしさの中にある巴の紋は水流のイメージを強くする。

文化十年の石灯籠

「危険」の札が括られた石造物は沼名前神社に数多く、 南側階段脇の文化期ものは特に風化の目立つ外観。 木瓜の紋が笠の側面ではなく上面に浮き出ている。出来た当時はくつきりしていたのだろう。

小烏の「小」

小烏神社境内に散見される「小烏講中」による奉納物。 玉垣刻まれた奉納者名とは別に、丸に「小」の紋も据えてある。 「きけん」の札はあるけれど石同士はしっかりくっついている。

灯籠に金の字

天目一箇神社の灯籠とくらべると、金古稲荷の灯籠は細かな飾りの凹凸が目立つ。てっぺんが欠けていたりするのもやむなしか。 笠の側面には「金」の字が紋章のように据えてある。金比羅社のように。

干支の配置

その鳥居の7年前、安政4年11月には石灯籠が奉納されている。 干支の配置も鳥居と同じく「丁」が右よりに、「巳」が真ん中にある。左右に散らばっているわけではない。

「郎」の字

その鳥居のもう一方の脚には「倉橋屋三郎兵衛」など、寄進者の名がある。 「郎」の字のずれ方が干支の配置に似ているけれど、意図してのものには見えにくい。

元治元年の鳥居

金古稲荷神社の手前には「天目一箇神社」。 稲荷神社の外された扁額と同じように額の角が欠けている。 「元治元甲子十一月吉日」の建立以来、外れて落ちることもあったろうから、文字の部分が割れてなければ使い続けても大丈夫という判定だろうか。セメント…

「金古稲荷神社」

小烏神社境内の金古稲荷神社の鳥居は鮮やかな紅に湾曲した笠と金色の扁額が派手。 稲荷神社ならそういうものと、珍しさは少ないものの、地面にあった欠けた石の扁額もまた「金古稲荷神社」。

黒っぽい

見上げる高さにある鳥居の扁額の、地の色が黒っぽいとさらに読み取りにくい。 鞆の小烏神社の額も黒っぽいけれど、凹凸が目立つのでまだ読める。 同境内の改築記念碑はたくさんの石のを台座にして高々と聳えている。裏にくらべると黒ずんでいる表の面が、書…

見上げる芳名

奉納者や世話人の名が石や板に残されると、石碑や石柱なら目の高さか足元にあり、板の額なら社殿の軒下に掲げられて見上げる位置。 琴山神社の石の芳名板は社殿の床同様やけに脚が長く、刻まれた字も細いので普通に見上げてもよく読めない。もしかしたら 雪…

琴山神社参道

昭和43年の「明治百年記念参道舗装」碑が郡山東方の琴山神社にある。明治が終わった直後と違って、直接に明治帝の遺徳を云々言いはしなかったろうけれど、顕彰する対象の一部には(または前提には)含まれている。 「琴山神社の段差」*1に見たように、社殿とそ…

情報の乏しい語句

その碑を建てた団体が「高田郡小学校教員景徳會」で、題額の揮毫は高田郡長の「上田實」。 前者はweb検索ですんなりと出てこない。郡長のほうは「広島ぶらり散歩」さんのサイト内の甲立駅の記念碑紹介*1が見つかるくらい。 ローカルな同時代人のなかでは、稲…

闕字2マス

明治が終わって間もなく、遺徳を讃えるその碑文は稲田斌による。 文中の「恭惟」と「明治天皇」の間と、「焉而」と「天皇」の間に二文字分の空白。

明治天皇聖徳碑

郡山公園から北には登山道、南には神社や学校、西には墓所や大師堂へと、方々と通じる中継点になっている*1。園内にも高低あって苔むした階段や坂道が木々に囲まれている。 上の段にひっそりと立つモニュメントは大正4年建立の「明治天皇聖徳碑」。台座の上…

広葉杉の来歴

同じく郡山公園の樹木に添えられた説明板に「広葉杉」がある。 140年前中国から江戸にもたらされた苗木が、吉田に持ち帰られたとある。 漠然としているようで断定的なようで、これ以上詳細になれないとしても仕方ないとして、出典が示してあれば、事実と相違…

植樹までの数年

郡山公園の池のほとりのモミジとサルスベリは中村橋之助氏による植樹。大河ドラマ毛利元就の放映された年、平成9年のこと。 それの説明板の書き出しは平成5年着手の「毛利元就生誕500年記念行事計画」から始まる。他の資料『広島県吉田町合併50周年記念誌…

横書きから縦書きへ

土生玄碩碑。 吉田瑞穂線の説明板のように*1、地面に固定された説明板は文字が薄れた後で縦書きに更新されている。 文言は変わらない。 縦書きのほうが薄れて見えるのは反射のせいか書体のせいか。 *1:http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20131217/1387323931

徳川家達の揮毫

同じく高田郡医師会*1により建てられた土生玄碩先生之碑。 背面の仮名交じりの文は「同郷の後學」富士川游による。 正面の題字は徳川家達の揮毫。同じ人の揮毫を画像検索すると、確かに同様な太い横画。隷書だからか。 *1:背面は旧字

井上敏夫先生之像

土生玄碩の生地が現在の吉田の市街地ということで、郡山公園にある記念碑は町を見下ろす向きになっている。 その手前にある胸像「井上敏夫先生之像」は昭和37年に高田郡医師会により設置された。題字は当時の県知事。より見晴らしのいい位置。

記念碑を置く余地

後から発見調査された場所は、埋め戻されない限りは遺跡以外の場所を名乗ることなく、公園になったとしても「史跡公園」であり、勢い説明過多とまでは言わないにしてもいかに価値ある遺跡であるかが力説される。 清神社背後の郡山公園一帯だって何かしらの遺…

道の上か下が遺跡

砂防公園になった大通院谷の遺跡の説明板は谷の奥まったところの元就墓所に行く途中で目にすることになる。 墓所と清神社の間の道に、比較的近年調査された「酉谷地点」の鍛冶炉跡がある。こちらは見下ろす位置の斜面にあって、遺跡自体には近寄れないがフェ…

山裾の学校

郡山城跡は麓の市街地に屋敷跡があり、山林と平地の境には堀などの遺構が姿を見せる。 谷や展望台から麓を見下ろせば、絵地図が示すような街並みが広がるけれど、目立つ看板でもないとただ見えるのは史跡ではない普通の建物。 学校の校舎は地図に詳細に描か…

絵だったり記号だったり

郡山公園から吉田の市街地を展望する絵地図は、文化財と公共施設を混在させた記号よりのイラストの集合。 これまでもたびたび見てきたとおり、資料館や市役所の一新がこれら絵地図の更新の契機になりやすく、変化を追いやすい。小学校、中学校、高校のイラス…

病棟の輪郭

あまり新しくはない吉田町内の文化財案内図にも吉田総合病院は載っていて、 建物を上から見下ろした形が複雑な凹凸を形づくっている。 病院の「沿革・概要」のページ*1にも増床や改修など規模拡大が綴られている。特に昭和42年の鉄筋コンクリート化と平成4年…

吉田病院

広島方面から吉田行きの路線バスに乗ると、終点の営業所の手前の安芸高田市役所前でほとんどの人が降りて乗客がいなくなる。 さらにもう一つ手前の「吉田病院」でも降りる人は多い。 商工案内図に示される正式名称は「広島県厚生農業協同組合連合会 JA吉田総…

一部現状と違う地図

現場に記念碑が建っていれば、その施設が現存しないのだとすぐわかるものの、古い地図表示と建物が残っているだけだったら、知らない人には今もあると思うかもしれない。そこまで縁の薄い人だと言及する機会も稀。 広島駅北口の駅前再開発で街区の構成は大き…

「看護の道」碑

宇品神田の県立広島病院敷地の東北の角にある記念碑「看護の道」は中野石材(北広島町)の製作。 実績紹介 | 株式会社 中野石材 平成15年に閉校した広島県立広島看護専門学校の沿革が刻まれている。*1校章は桜の中に「県看」「ヒロシマ」の字が置かれている。 …

「學窓之丘」碑

その県道5号のことは5年以上前にすでに触れていて(実際に歩いたのはさらに前)、 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100522/1274548036 右手に病院があることにも触れているが、通り過ぎて川上のダムに向かっていった。 かつては吉田高等学校の八千代分校が…

県道5号

その下土師中バス停のある道路は県道5号。 東に向かう人への標識には「可部」と「多治比」への分岐が示され、西に対しては遠く「浜田」から近くは「北広島」が示される。 真ん中の「大朝」も北広島町の一部だけれど、町役場が千代田町にあるので、だんだん千…