環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2016-01-01から1年間の記事一覧

学校跡地に記念碑

「記念植樹から慰霊碑へ」*1に挙げた多家神社境内の記念碑は、陸軍幼年学校の植樹記念碑は「原爆の劫火に耐えた肇國神社の石柱発見を機として」平成15年に建立されている。 陸軍幼年学校そのものに関わる現地にも当然、跡地であることを示す記念碑があり、昭…

記念碑への入口

広電の白島線が通る南北の通りに県立美術館がある。 それに隣接した壁に説明板があり、「西晋一郎博士旧宅跡」があったことを説明している。 広島に居を構えたのは、広島高等師範学校と広島文理科大学の教授となったため。説明文の末尾には「記念碑は、この…

西警察署跡

かつてあった施設の跡地であることを記念碑で示すとき、現在その敷地を何に使っているにしても、設置してよさそうな場所はたいてい植込みの中とか、壁際の狭い土地だったりする。 西警察署跡の記念碑は見やすい文字で略年譜もついて情報がまとまっている。周…

東の県庁前

広島県庁の東隣街区には旅券センターと警察署がある。その間の建物は中国電力基町ビル。その一階で営業しているコンビニは「広島県庁前店」。 コンビニの駐車場の脇を囲むように細い敷地に植栽と記念碑が並ぶ。この地が「臨時帝国議会仮議事堂跡」であること…

広島控訴院跡

歴史的な建物が残っていない場合の、跡地に表示される石柱は説明文を載せるにも長さの限度があるので、最低限名前と建立年月が刻まれていればいいかと思うくらいの情報量。 中区小町平和大通りの緑地帯に「広島控訴院跡」の石碑がある。大通り開通の年、昭和…

角柱で屋敷跡

吉香公園西部とその奥の街区が昔は城下の武家屋敷で、さらに奥の山麓になると寺院が連なる。 宇都宮氏の屋敷跡には太めの木の角柱で表示してある。 宇都宮氏の中で比較的著名な二名、普請奉行の正如と弟の由的(遯庵)の名が挙がる。

致遠の知名度

岩国藩の砲術家、致遠こと有坂長為の顕彰の為の文章を福山藩の江木鰐水が書いているその碑文。安政2年に致遠は没している。 引き合いに出されるのは高島茂敦門下の旗本「江川下曾根」の二人で、海防の議起こって「二子之名 震于一時 而君亦漸顯焉」という時…

人の名の面

その碑の他の面に刻まれた字は『岩国金石文集』には載っていない。発起人などの名前の羅列だから文の内容とは関わらないけれど、著名人の名前があったりすると同時代の資料として関心を呼ぶかもしれないし、無名の人をあえて載せると迷惑になるような文脈が…

安政の文と明治の碑

「致遠有坂先生之碑」が建てられたのは明治20年。子の有坂長良と孫の有坂成章による。これは側面に刻まれている。 表の上部の題額は当時の元老院幹事細川潤次郎(十洲)による。本文の書は旧藩士の塩谷処(老田)。揮毫の年は明治18年。文章そのものは福山藩の江…

索道の下の碑

同様の形の碑は白山比竎神社向かいの「致遠有坂先生之碑」がある。 この碑は神社の方に面を向けていて、隣に別の碑をはさんでロープウェイ麓駅がある。 字を右下から見上げるのは、そちら側に説明板があるためであったり、麓駅から伸びる索道を背景にしてみ…

題額の角度

石碑の上部には右横書きで「神武正統記念碑」の題字がある。 点画のうち、彫りが深く幅が広いのは右払いや横画の終筆で、下から覗き込むと濃い線が上寄りに見える。説明板が向かって左側にあるので、この向きから見上げる人は多いのだろう。

側面に続く

神武正統記念碑の碑文は表側に23行あり、さらに側面にも5行+紀年が続く。 久隆−久成−久之−久義と続いたのち、久義の弟の務人が継ぎ、務人の子久豊(久俊)とその養子久寿の頃に幕末を迎える。碑文の表の終わりが「祖父久義撫育之已而久」で、側面に移って「義…

神武正統記念碑

岩国徴古館の庭の中に立つ「神武正統記念碑」は、明治25年片山武助による片山伯耆流の顕彰碑。流祖片山久安の経歴に始まり、岩国で吉川家に仕えた際に生まれた子の久隆から代々伝えられた「止戈之術」の流れを記す。その終わりは「明治六年廃刀令之下家業亦…

低めの説明板

立て札と呼ぼうか、説明板と呼ぼうか。表示されている文字が少なかったり名前だけだったりしたら立て札として、立ち止まって文章や図版を読ませようとしているなら説明板としておこうか、というぐらいの気分で、ここの記事中では「説明板諸相」とか使ってき…

立て札のようで立て札でない

酒蔵の多い西条の町中にも、昔風の立て札が新旧作られて観光客を案内している。 賀茂泉の「次郎丸井戸」*1のように、井戸の脇に白い立て札が立っているのが由緒ある井戸の典型的な風景。 井戸の所在地によっては、あるいはその保護の設備によっては、井戸の…

細いのと低いのと白いの

白山比竎神社門前には3つの立て札が並んでいる。 社号を掲げた木の札は黒ずんでいるがそれを支える杭は鉄のようで二本足。 由緒を記した横幅のある札は、材質が木のようなそうでもないような真っ白さ

鉄板立て札

紅葉谷公園の入口には吉川氏の菩提寺洞泉寺がある。 門前の立て札が寺院の由緒と「臥竜の梅」を紹介する。杭と笠の部分は木製で、文字を載せるのは白く塗った鉄板の上。錆の寂び。

見下ろす人に

庭園に隣接する寺院の白壁の、とくに樹木もない平坦な場所に小さな立て札があり、「糞は飼主が始末すること!」と墨書されている。 姿形は藩主の案内と似ているが、てっぺんの庇?の突き出し方が左右異なるので別文脈の別物なのだろう。

池の奥の立て札

吉香公園の西の奥の紅葉谷公園にも各種各時代の記念碑が散りばめられていて、どんな順路で歩いたらよいかよく分からなくなる。 庭園の池の脇の石の道を抜けた奥に立てられた立て札状の説明板。「独立一勺の水」の刻字がどこを指してのことかよく分からないま…

墨の流れ方

山の上の墓所にも門が構えてあり、初代広家と12代経幹のそれぞれの墓域の入口を開けている。 平成20年に見た頃、門は新しそうに見えた。門の手前で藩主の名を案内する小さい立て札も明るい色の木だった。そのせいか、墨が木になじまないうちに雨を浴びたのだ…

墓所の中の門

その墓所の中には歴代藩主や妻子の石塔が配置されていて、 石や土の塀で区切ってあったり、石畳や階段で墓道が整備されていたリと、 ひときわ大きい五輪塔とそれを囲む空間が藩主ものであることが強調される。 藩主の墓が必ず木の門を構えているわけではない…

吉川家墓所説明板

墓所の入り口を入ってすぐの所と、墓所内の山道を登ってすぐの所に墓所の説明板が設置されている。 「吉川家の移り変わり」として、歴代領主(岩国藩吉川家)とそれ以前(安芸吉川家)の人物紹介がある。そこに載る全員の墓所がここにあるわけではない。興経以前…

墓所の鳥居

同じく、『岩国金石文集』収録の鳥居銘に「高秀祠鎮昭祠鳥居銘」がある。吉香神社に統合されるまで治功大明神とは別に祀られていた「高秀祠」「鎮昭祠」の鳥居だったもの。 「この鳥居はいま横山の吉川家墓地、門内西南隅の地にある」(27頁)と現在地の説明も…

鋒垂祠鳥居銘

享保の創建時の鳥居に刻まれている字は、脚にびっしりと詰まった漢文で吉川興経を顕彰している。 全文は岩国徴古館発行の『岩国金石文集』p21に収められている。 「實我 巌國侯之祖也」のような領主吉川家に対する闕字を用いた部分の空白は省かれている。 当…

移築後の石灯籠

現在地に移築されたのが明治18年。その場所に新たに置かれた石灯籠が、単に治功神社の移転ではなく諸社の統合であることを荘厳する。 石の造形だけではなく、そこに刻まれる名が文人のそれであるというところにもその時代の力の注ぎ方を感じる。 神門の内側…

鳥居も享保

建物のほか、棟札二枚と鳥居も指定文化財の対象となっている。 神門のすぐ手前に「享保十三年戊申歳秋八月吉祥日」の石鳥居。

神門に神紋

山口県の文化財紹介ページでの吉香神社は、対象となる建築物3件(本殿・拝殿・神門)の構成要素別に工法や装飾が一覧になっている。 山口県/社会教育・文化財課/文化財・山口県の文化財・指定文化財(指定文化財要録) 神門の中央を見上げた所にある紋の装飾につ…

吉香神社の元

吉香神社が現在地に鎮座するまでの、祭神などのもろもろの変遷は山口県の指定文化財紹介のページに詳しい。建築物の各要素についてはさらに詳細。 山口県/社会教育・文化財課/文化財・山口県の文化財・指定文化財(指定文化財要録) 吉香神社としての歴史は新…

場所と名の移り変わり

同じく大朝町史から。 岩国に勧請されたほうの「治功神社」は、正徳元年にまず椎尾八幡宮境内に祀られる。その頃の名はまだ治功大明神ではなく「鋒垂明神」。 その後、横山寺谷を経て白山宮境内に移されて明治を迎える。

脇の脇

吉川氏が駿河から勧請した八幡宮が龍山八幡で、右脇に接している社が治功神社。 安永9年、吉川経倫により再建された社殿が現在のもの(『大朝町史 上巻』)ということで、龍山八幡と比べてしまうとどうしても新しい。 吉川興経とその妻子を祀るのでこちらも…