環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2018-02-01から1ヶ月間の記事一覧

芳名板とそれ以前

府中町の多家神社では、平成16年*1の台風により手水舎が倒壊したため再建のための寄付を募る看板を立てていた。(というのを見かけたのが平成18年) 再建成ったあと、寄付者の芳名を連ねた長いパネルが境内脇に設置されている。山林を背後に、電柱や排水溝の手…

芳名板と説明板

安佐南区安東の二宮八幡神社*1は緩やかな尾根の上。 奥の段に上がると右手にクスノキなど何本かのあまり太くない立木が並んでいて、幹と幹に縄がかけられ紙垂が垂らされている。 紙垂の奥に控えているのは修復工事寄付者の芳名板、とその下には二宮八幡の由…

説明板諸相:ヒノキのあいさつ

県指定の天然記念物としての名称は「八栄神社の大ヒノキ」。 根元を囲む柵の手前に広島県教委と大朝町教委による説明板と、広島護国神社宮司(当時)の揮毫になる石碑が並ぶ。 説明板の文言は大ヒノキの自己紹介の形をとり、指定された2本のうち、「目通りの幹…

大ヒノキの幹

北広島町の八栄神社*1参道脇にそびえる巨樹は檜。 階段の下から見ても上から見ても、梢は見上げる高さにあるが、 根元の形は、下から見上げたり横から見つめたり上から見下ろしたりすることで、その隆起する肌の多彩さを感じさせる。 細い注連縄のかけられて…

うろ

同じ楠の根元の、根と根の間の空洞になった部分に何がしかが祀られていて、小さな注連縄と柵が塞いでいる。 飾らないで空洞のままでも、木そのものが保護されている限りは安泰ではあるものの、もしも木の活動が止まったら切り株や材木に聖性をたもつのが精一…

楠の傍ら

楠の巨樹は市指定の天然記念物*1。根本が岩塊のように膨らんでおり、2メートルほど上で細くなる部分の幹に注連縄が巻かれている。 傍らにベンチや記念碑がまとまっていて、小ぶりな切り株もある。 黒いプレートに印字されているのは「悠仁親王誕生を寿いで」…

糸崎ご当地万葉集歌碑

それらの石碑とは違う向き、国道や海に向かって立つ一群の石碑もある。いかんせん目の前は埋立地が広がり海を望む向きとは言いにくい。 桜の枝が絡みつく細長い歌碑は万葉仮名で「可敝流散尓 伊母尓見勢武尓 和多都美乃 於伎都白玉 比利比弖由賀奈」の歌を刻…

石碑に添える歌

その歌碑の隣には同じ向きに立つ石碑が大小二つ。 「公人之碑」は明治の尾道の商家の当主「小林徳三郎」の功績を讃える頌徳碑。その養子の画家小林徳三郎の絵がふくやま美術館に所蔵されているので、展示目録No.124にてこの公人之碑も紹介されている。 その…

裏は略歴

その歌碑はいくつも石碑の並ぶ区域の中にあり、背後は玉垣のそば。傍らの杭に「裏側 今川貞世略歴」と案内があることによってようやく裏を見てみようかという気になるような立地。 略歴は横書きに刻まれていて、生年を西暦だけで示してあったり*1、「静岡県…

糸崎神社の歌碑

平成12年建立の「みはら歴史と観光の会」による今川了俊歌碑は三原市の糸崎神社社前にある。 『道ゆきぶり』に載る「かつきするあまの手引の糸崎はしほたれ衣をるにそ有ける」が刻まれている。表記が原典通りかどうかよりも、現代の書の一作品として鑑賞する…

見えない碑文

大野浦駅の今川了俊歌碑*1のように、仮名遣いがあやしげな歌碑もあるので、石碑に刻まれた古文はあくまで石碑建立当時の演出手法を伝えるものとして扱うこととなる。 同じく大野町内の石碑に明治半ばの記念碑としての歌碑がある。 隣の説明板の字に従うと、 …

万葉の里

「万葉の里」を冠しての観光振興をすすめた倉橋町(現呉市)は、万葉集の「長門島」が当地に比定されることを根拠とする。その考証は香川南濱らによる*1 万葉集中の当該の歌を石碑にあるいは説明板に載せて古代の雰囲気を盛り立てる。いかんせん確実な古代の遺…

日本三景碑の「嶋」

桟橋近く、参道入口に立つ「日本三景碑」は「日本三景観光連絡協議会」*1が「創立二十周年記念」に平成11年に建てた記念碑。 裏面の自治体名の「宮島」「松島」はともに「島」、表の面の「厳嶋」は「嶋」で「松島」は「島」。 林春斎の『日本国事跡考』の表…

現代の「厳嶋」

「厳島」にしても「宮島」にしても、現在の通常の表記に「嶋」は使われず、四角に収まる頭の大きい書体の「島」が一般的。*1 そんな中、現代の石材加工による石灯籠に「嚴嶋」の表記が見られる。島内の「北之町浜納税組合」による「日掛百参拾周年記念」の奉…

山が左上にある

髢之碑*1の中の字体でも見たように、「廣島」もあれば「廣嶋」もある。どちらかしか正しくないという窮屈なご時世でなければ、「嶋」でも「島」でもどちらでもいい。 前後の字とどうつなげるか、どこに余白をとってどういう配置で書くかで選べばいいか。 宮…

島の山が突き出る

山を協調するつもりがなくても、「島」の字を崩すと上半分が小さくなり山部分がくっきり残る。左へ又は下へと突き出る形。 千畳閣にある大鳥居扁額の「島」や、大聖院境内の鋳物水盤に見られる「廣島市」など。「林鋳造所」の手前にある「島」は次の行に重な…

島の山が大きい

同じく安芸国内からの御島巡り参加者に「本州豐田郡生口鹽濱中」がいて、嘉永5年壬子の額「神島巡賽」を奉納している。 厳島の神紋を右上に据え、大きく「神島巡賽」と書かれている。とくに「島」の下にある「山」が隆々とそびえている。隣の「巡」は上の方…

佐伯郡と安藝郡

宮島はもと佐伯郡なので、奉納者の出身地が佐伯郡なら「當郡」で通じる。 三国志に材をとる絵馬は白砂村(現広島市佐伯区)*1の澳八郎治光成による奉納(文化15年)。 大書「雲漢」は明治10年、安芸郡奥海田村(現安芸郡海田町)の出田直兵衛による奉納。隣…

幕末と昭和の広島の人

昭和9年奉納の額「忠孝」*1は廣島市の実業家島本幸助による。こちらも家督を継いだ際に「幸助」を襲名している。 天保12年の頃の絵馬では、単に「廣島」と書かれる。馬の彫刻を貼りつけた絵馬を奉納したのは「藤吾助」。 *1:書は頼春水

明治18年の絵馬

広島市が始まったのが明治22年。その前は「廣島區」で、明治11年からのやや短い期間「郡区町村編制法」により当時の広島中心部の市街地に「区」が置かれた。 明治18年の絵馬がその時期にあたるので、奉納者芳名の頭に「廣島區」と書かれる。「杉岡友七」の次…

川の中の馬

同じく平家物語からの題材による絵馬。 千畳閣の中央に掲げられているのは里見雲嶺「宇治川先陣争いの図」(明治22年)。池月と佐々木四郎高綱が川の中を突き進む。 黒い額縁の四辺に金字で奉納の銘が浮き上がる。下辺に「廣島市」 の奉納者二十数人の名が所狭…

与一の絵馬

同じく享保二十年奉納の絵馬に「扇を射る那須与一の図」がある。「享保龍集乙卯三月穀旦」*1に「廣島京橋町」の島廻講中による奉納で七名の屋号と名前が書かれている。 原田佳子『厳島平成絵馬鑑』(2003)の29ページに図版が、97ページに解説が載っている。…

鹿家族

同じく現在千畳閣にある鹿の奉納額(絵馬)に、享保20年奉納の「楓に鹿の図」(大岡春卜)がある。 右に雄鹿、左に雌鹿と子鹿が配され、頭上には楓の葉、足元には笹の葉が挟まれる。色が薄れて子鹿の姿もぼんやりしている中、雄鹿の角と濃い体色はくっきりと残る…

絵の鹿

千畳閣の梁上にまとめられている大きな絵馬群。その中にも鹿のつがいを描いたものがある。 「東両備第壹泰平講社」の奉納で、背景の青と水色とそれを区切る仮名の散らし書きが色鮮やか。 鹿の特徴の模様と角が強調されて、確かに馬ではないと紅葉を散らす。

茶色と模様

近づいて触ったりしない距離感の中で、背中にある白い斑点模様(鹿の子まだら)の見え方が訪れた時期とともに記憶にとどまる。 等間隔にくっきり見える斑点もあれば、腹の近くにだけ目立って見えるような場面もあり、 ほとんど模様が見えない時期もある。

鹿の世相

古いところでは、10年前に載せた「角のある鹿は危険です」*1という観光協会による看板。設置時期はさらに遡る。 物がさらに古そうだったのは、大願寺境内の餌やり禁止の看板*2。境内以外の島内ではまあまあ黙認されていた時期があったのだろう。 昨年見かけ…

神社裏手の自転車置場

厳島神社社殿背後の玉垣は、浜と陸地を区切って大願寺や水族館への通り道をかたどる。 道の途中に「自転車置場」が設けられている。使用上の注意は「鹿にいたずらされますから荷物は自転車に置かないで」と宮島ならではの状況による。赤い傍点で強調される。

満ち引きのロープ

潮が満ちてくれば花火の打ち上げ場所に近づきようもないが、引いている時には近づけてしまうので、前もって立ち入り禁止のロープが浜に巡らされる。 社殿の周囲にも同様にロープが渡される。 安全のためであり文化財保護の為でもあるということで、注意書き…