環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

光大明神から治功神社へ

「しばしば」と、芸藩通志も触れるくらい「治功神社」に落ち着くまで社号が繰り返し改められた。(吉田家に改称を伺う形) 『大朝町史 上巻』*1が紹介する社号の変遷に関する資料は、上田稲吉『概説新庄史私考』の載せる典拠不記載の「治功大明神」という記事…

坂村の獣

写真はたぶん猫の足跡。 坂村の「物産」の部の獣之類には16種類ある。 鹿 猪 狼 兎 狐 狸 マミ 猿 貂 鼬 獺 猫 鼠 犬 土龍 スズカネ と並ぶ中の末尾「スズカネ」に注記がある。 俗唱ニ存不申候是モ土中ニ居申シ候土龍ニ似又ハ雛ニモ似寄リ申候 他の注記にあ…

寺山の案内図

坂の東部の寺山地区の中央部にある「寺山口」バス停にその案内図はあり、細部を読むには上下に大きすぎる気がするものの、意外と傷みは少なかった。 地区の動物のイラストの上にはミツマタなどの植物も載っている。 「書出帳」物産の末尾には「売買ニ相成候…

ホタルの里

「坂村」は同じく高田郡でも水系の異なる三篠川流域の上流で、豊田郡と三次郡(文政期当時)と隣接する。 そこの「書出帳」はどの部門も記述が詳細で、物産も名前だけでなく注記がたくさんある。 「魚龞之部」には「山椒魚」に「所俗はんざきと申候」と添え…

村の獣

そういった「鳥の類」の前後には「獣の類」が載っている。 入江村近辺に絞ると、 中馬村と長屋村と佐々井村では筆頭に「鹿」が書かれる。なぜか桂村では鹿が無く、載っているのは「兎 狐 狸 猫 犬 いたち 川うそ 鼠」。

奥海田の植物

瀬野川堤防の石原公園に平成17年3月に植樹されたシダレザクラ。一本植えられるときはソメイヨシノ以外が選ばれると思ってよいだろうか。 「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」で「物産」を報告する際の雛形は次の通り。 一 物産 何によらす其土地に生る物書出し可…

本地村の石室

『猿の国郡志』での項目名は「石室」と書いて「イハヤ」のフリガナ。石見の「志都か岩屋」などを傍証に挙げているところを見ると、この施設(実際は横穴式石室)のあるべき呼称として「イハヤ」を選択したのであって、「里俗」で一般的に使われていたとされ…

本地村の視点

横穴式石室の開口状態を指しての呼び名に、おおよその地域差があることが「国郡志御用に付下調べ書出帳」の記載から見えてくる。先行した安芸郡は「窟」「籠り塚」「火の釜」「山伏塚」など多様で、賀茂郡は「火の釜」に統一、豊田郡は著名な「親王石棺」を…

中馬の古墳群

中馬村は、上入江と同じく現安芸高田市吉田町内に位置する*1。書出帳には「八ツ塚」が記録されている。 八ツ塚と申候而凡村の中程に腰林山之内塚御座候 いつ頃いか様の訳にて出来致し候哉相しれ不申候尤八ツは無御座塚形ち御座候分も当時は崩し居申候 只今弐…

井原の記述

現在は安佐北区白木町の井原は、吉田町の入江とは荒谷山一つ挟んで南に位置する。もとは同じ高田郡なのでいちおう「近村」。 井原村の書出帳には「塚」が村内各地にたくさんあるとして列挙されている。 一、塚弐拾壱ヶ所光泉寺上 壱ヶ所 奥行九尺 はば五尺 …

高田郡の石窟

現「貞丸古墳」は『芸備国郡志』に「西條石棺」のち改め「親王石棺」として載り、南方村の書出帳では「油塚」として報告された。その結果『芸藩通志』には「古壙 二所 官道の山麓にあり、石窟二あり、(略)」とまとめられた。同じく「石窟」として『藝藩通…

豊田郡の塚穴

現在はおおよそ三原市西部にあたる豊田郡には、「油塚」などの名を残す貞丸古墳*1や、「梅慶庵塚」と書かれた梅木平古墳*2といった、県内有数の規模の石室を備えた古墳が集中している。御年代古墳は近代の開口なので俗称が無いが、近世にすでに開口していた…

ほかの「人穴」三例

高宮郡の「人穴」三例の記述が似ているから、そのうち2ヶ所が古墳ならあと1ヶ所も古墳だろうという推定ができる。しかし他郡の例を見ると同じ名前でもバラバラの認識が集まるだけ。 豊田郡大浜村*1にも、古墳の石室を「人穴」の名で記載してある。 黄幡山人穴…

高宮郡の人穴

「給人原古墳群」は可部古墳群の中で西に離れたところにある。現状では墳丘と天井石を残してなおかつ開口しているものは1基のみ。 天井石や壁の高さを失うと、ただの凹みになって「人穴」とは異なる解釈に変わりそうで崩壊加減が難しい。小田の「湯釜古墳」…

大毛寺の人穴

上ヶ原神代人穴 数拾ヶ所 往古人住居仕候由 奥行五間 横九尺或ハ二間三間有之候片平ニ入口有之中ニ炭ノ粉杯有之何ツノ頃何人住候歟ハ相知不申左右奥ハ築地ニ而上ハ石畳ニ仕雨露漏不申候当時ハ野山又ハ百姓腰林ノ内杯ニ御座候 大毛寺村「国郡志御用ニ付下調べ…

上ケ原の斜面

上ヶ原砂防堰堤*1から南へ流れる帆待川を境に、東に上ケ原古墳群、西に原迫古墳群が分布する。大毛寺と中野の大まかな境でもある。 上ヶ原で近年発掘されたのは標高134mあたりの第34号古墳。過去に確認された三十数基の大半は現在の可部6丁目の住宅地に含ま…

上ケ原の人穴

学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館 の、 「江戸時代の人が見た可部古墳群」(2011.5.13)という記事に「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」(大毛寺村)の「上ケ原神代人穴」が紹介されている。発掘調査によって寛永通宝が見つかった石室もあることに触れ、「…

賀茂郡の火ノ釜(一)

賀茂郡ではもっぱら「火の釜」の呼称でまとめられている。 『国郡志御用郡辻書上帳 賀茂郡 文政二年卯五月』に「寺家村熊野跡村書上帖ニ相見」と、記載のある2ヶ村を挙げるだけでなく、「西條庄高屋庄之内に数々有之由」と、記載していない村々にもあると補…

安芸郡の籠塚

矢野村の「下しらべ書出帖」が「童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候」と書くように、安芸郡内では「こもり塚」(籠塚)の名で記載している村が連なっていて、「火ノ釜」よりも一般的であったらしい。 奥海田村は既に見たように「百姓腰林之内…

矢野東の古墳(ニ)

もう一度「火ノ釜」の形状についての記述を抜き出すと、横穴の寸法と石組みの出来と間口の広さが調べられている。 何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方 それらの西崎山や近隣の…

矢野東の古墳

矢野村の「下しらべ書出帖」では「火ノ釜」という古跡も「西崎山」のものとして登場する。 此火ノ釜ト申スハ御建西崎山の内二三ヶ所有之、何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方ニ…

矢野の渓流

安芸郡矢野の地形を山と海の方向で言い表すのは「国郡志御編集ニ付下しらべ書出帖」*1も同じ。 形勢気候民戸産業之事 一 当村西北ハ海、東南ハ山高ク連リ、一村限り川二筋流出、井手・雨池数々有之候(略) 村の中を流れる二筋の主流は「東川」「西川」と書…

友広神社

友広神社の創建は明らかではありませんが、境内に残る石造物から江戸時代中頃に境内の整備が行われた状況がうかがえます。このイチョウも現在の大きさから、あるいはこの時に植えられたものかもしれません。 と、イチョウの説明板にある。中島村の「国郡志御…

温井八幡の社叢

『佐東町社寺林の樹木名札について』に載る佐東町内の神社は「宇那木神社」「光広神社」「細野神社」「温井神社」「中調子神社」「毘沙門天」の六ケ所。川内の温井と中調子以外は山を背にしているので周囲の森と連続している社叢。 温井神社の境内に多いのは…

社叢の名札

以前開催された紙屋町シャレオの古本まつりで、昭和57年発行の『佐東町社寺林の樹木名札について』という冊子を見かけたので、いずれ参照することもあるだろうと思って購入。 発行時はすでに広島市の一部ではあるけれど、旧町名「佐東町」が安佐南区の「八木…

鐘のね響きて

第一次長州征伐にあたって、広島城下から近隣の村々への人夫動員の合図に寺院の鐘が準備されている。 (略)御城下元鐘ニ応し、一声ニ声三声与受継撞立元鐘止メ候ハゝ、勿論止メ方等聊も相違不致様取計可申、(略) 「城下近郊寺院に人夫繰出し合図の鐘撞き…

巡錫の求聞持堂

弥山の山頂手前には、弘法大師が修行したと伝える求聞持堂。「付近には原始的な磐座信仰の対象とみられる巨岩が多く、これに習合した真言密教の遺跡が少なくない」ということで、古くから誰かしら修行に訪れたのには違いない。 ここに限らず、修行者が「大師…

館町と桜山

和久原川西部、三原駅の北側一帯が「館町」。もと三原城内で、神明大橋西詰に「東大手門跡」の碑がある。 碑のある曲がり角には「桜山登山道」への案内表示もある。桜山は館町のすぐ北にある小山で、全長865mの登山道。平成10年に桜の植樹が始まった、と案内…

「山伏塚」

小田村の『国郡志御用につき下調べ書出帳』に「古跡」として「山伏塚」が載っている。「松笠山ノ内石ニ而三尺九尺ノ穴ヲ築先年山伏這入申候由申伝候」という内容。 前項の「広島市安佐北区所在 山武士塚古墳群の測量調査」にいう第1号古墳が、竪穴式石室に盗…

道教地蔵ルートの脇

小田からの参道の、道教地蔵ルート一丁付近にも四角い窪みをなす石組みが見られる。古代の遺構とかではなく新しい時期の古井戸らしい。古墳はもっと上にある。 古井戸の脇を過ぎるとアカマツにまじってクヌギやカクレミノの林があり、道端にはコマツナギ、コ…