石碑石塔
船山城主の山中氏は三入荘の熊谷氏に敗れた。ということの詳細はどうであれ陰徳太平記によって有名。 船山城跡そのものに山中氏の顕彰や慰霊を明示する物は無いけれど、東の方角にあったみのり山光明寺に「新原心円顕彰碑」が関わりを示す。安佐北区図書館と…
kanototori.hatenablog.jp 現在の姿に整備される前の駅北口にも、今川了俊の歌碑があった。 所狭しと佇んでいた石碑が現在では、広々とした駅前ロータリーの隅で近くからも遠くからも眺めやすくなっている。
さらに踏切の目の前の三叉路。植え込みの中に立つ石の道しるべ。 左手、桜並木の坂に向けた矢印は「三瀧観音みち」を示し、右手、三滝駅沿いの道から丘の上に向かう道には「聖ヶ丘 親鸞聖人尊像道」を示す。現在は親鸞像は無く台座のみなのでこの道しるべは…
三滝観音参道が車線中央を渓流で分たれる坂道。 その道の傍にひっそりと立つ記念碑は「藤原仁顕彰碑」。敗戦を受けて自決した大東塾の14人のうちの一人、比婆郡出身の藤原仁。昭和41年の影山正治の碑文と、平成7年の50年祭で共同遺書の碑が加わっている。
同じく錦川の岸、錦帯橋から5分の距離に佐々木小次郎像があり、その傍らに立つ「錦帯橋」歌碑にも楽譜が刻まれている。 鵜飼音頭の配置とは異なり、楽譜は全体を見せず、歌詞の2番が楽譜に重なるように中央にある。
錦帯橋を渡った先の堤防上、記念碑や銅像が林立する中に、「岩国鵜飼音頭」の記念碑がある。 右に楽譜、左に歌詞がある。五線譜の間隔が広いのは、歌詞の最初の合いの手が重なるので2行使っているため。
同じく岩国駅前、といっても見かけたのは平成20年なので、現状とはかなり違うのかもしれない。 昭和20年8月14日の空襲の慰霊碑として、50年後の平成7年に建てられている。
岩国駅西口ロータリーにある平和記念碑は8月14日の空襲の慰霊のためのモニュメント。 街路樹を背にして駅舎の方を向いた像(乙女の像)が手を合わせている。 bkss.co.jp駅前広場の再開発によって現在地に移ったもので、移転の変遷も台座に表示されている。
広島護国神社の鳥居は、広島城本丸にある社殿正面の一基と、広島城跡東側入口(RCC中国放送南)の一基とがある。 城跡内に入る車は必ず(?)潜ることになるのが東側入口の鳥居で、護国神社が旧地にあった時には爆心地から330mの近距離に立っていた。 「広島…
kanototori.hatenablog.jp 隆景広場の名を刻んだ石碑は当時の溝手市長の揮毫。 同じ市長の揮毫による「三原連続立体交差事業完成記念」の碑は南口の東寄りにある。横書きのこちらの方が安定して見える。
駅前の隆景広場は東に堀があり、天守台跡を見上げる。 そういう方向を背にして立つのが慰霊碑らしさかもしれない。広島市は反対方向だけれど。 石碑の両脇には千羽鶴、向かって右前には「平和の鐘」。寄贈者にみはらし温泉(当時)の運営会社の社長(当時)…
公園内の稲荷の境内は公園と同じような木陰をつくる。 鳥居や社号碑のような、縦に細い影を作る所よりは、木の枝葉によって作られた広い影の方が長時間い続けられる。猫は。
組織の沿革を綴る際、その場所以外の時代のことも触れるので、なるべく煩雑にならないようほどほどに要点を絞った説明が求められる。 組織ではなく施設、羽衣町の萬象園のことを説明するこの記念碑は、中央図書館の南隣の角地にある。庭園の石造物が移設され…
千田通りに面した公園の前に立つ石碑は「広島公共職業安定所千田町庁舎跡」の沿革。 広島市における「公設職業紹介所」は大正9年の東松原職業紹介所と中央職業紹介所に始まる。 それ以降の名称や所管の変更が綴られる。当地千田町に庁舎が置かれた期間は、昭…
さらに市内中心部繁華街の中にある慰霊碑。 広島中電話局の跡地に設けられた慰霊碑で、被爆当日「職員、女子挺身隊員、動員学徒等451名」がここで被爆し約半数が亡くなる。 慰霊碑を囲む2面の壁の奥には被爆タイルが埋め込まれ、側面の壁に説明板がある。当…
東本町。上野池にほど近い、民家を抜ける細い道に道しるべが立っている。 指し示す方面が合っていれば、昔からの位置のままといって差し支えないけれど、実際には道路や用水路の整備によって地面が変わらざるを得ない。
その公園内には火野葦平の記念碑もある。「母マンの生誕地」碑。 以前は備後庄原駅前にあったが移転している。(Ingressのポータルはまだ現在地ではない) 移設間もないために地面がさっぱりしている上に、黒っぽい石に白い字なので読みやすい。
背の低い文学碑は、周りの木々によってより一層見えにくくなりやすい。でも定期的な手入れがある施設内なら、碑文が見えなくなるほどにはならないはず。 www.city.shobara.hiroshima.jp 中央児童公園の倉田百三文学碑(短歌碑)は植栽の中に点々と立っていて…
上野池対岸の丑寅神社。池入口に近い参道に注連柱が一対。 片方には生い茂る木の枝葉と蔓が三面を覆って、正面の語句が読みきれない。大体は見えるけど元の書体が読みやすいからか。 逆に、もう一方の柱は「心鏡煒煌」の語句がくっきりと示される。面の白さ…
鳥居と遊歩道の間には、大正15年の注連柱が立っている。庄原町(当時)の上本町組による奉納 鳥居などは彩色を更新できても、石造物を新鮮な姿に手入れすることはあまりなされない。苔むしたり黒ずんだりする方がが期待されている様子。
「上野池の自然と文化を守ろう」という言葉を添えた、ポイ捨て禁止の看板。 イラストには池の中に立つ朱の鳥居と、公園入口の池畔に立つ灯籠がある。この二点とも近づいて触れるものではなく、離れて眺める物、周囲の木々や湖面や地面も綺麗でないと成り立た…
その芳名板の隣には、広島東洋カープからの記念植樹と「感謝」の記念碑がある。 同じ令和元年11月24日。公園の景観は少しずつ更新されていく。
もともと「火村塚」が祀られていたのは西本町(西浦)で、昭和5年に現在地に再建されている。 現在地の「宮ノ下組」によって石碑が建てられ、平成27年には宮ノ下長寿クラブによって説明板が立てられる。
その交差点の南西、備北地域事務所の角に「火村霊神之碑」が祀られている。 福島正則暴君説話の一つで、のちの領主の浅野氏に都合のいいというか、悪役にしても咎められないためにそういう役回りで定着してしまう。手討ちにされたという木村が誤読して火村と…
安芸高田市向原町長田の山林に「尼子三兄弟ゆかりの墓」がある。 明治42年に修復整備された墓地には五輪塔が何基か配置され、宝篋印塔の一部が最奥部に据えられている。中段には後世に加わった仏像や「尼子三兄弟之はか」と刻まれた石碑が並ぶ。 実際には三…
地域の一般の墓地も、その立地や由来によっては史跡に似た解説を添えられることもある。 毛利元就および毛利氏墓所への参道途中に「用十郎墓地」を右手に見る。 墓地の沿革を説明した立札が立っていて、墓地の関係住民により道の改修がなされたことや隣にか…
被害を受けた細野神社境内は、修復により階段とその横の擁壁が作り直された。白い。 階段の数段目から真っ白でまっすぐな石で、麓の数段や周りの狛犬台座などは元の石を保っている。
移転するつもりのない石碑が、災害によって攪乱されてしまった後、傷を残しつつも元の位置に直された姿は、災害からの復旧を象徴する意味が加わる。 安佐南区の細野神社の麓に立っていた「定用水碑」と「熊野忠左衛門墓碑銘」が豪雨災害により土砂に流された…
石碑に「南无阿弥陀仏」と蓮華の刻まれた道しるべが横川(南原川が根の谷川に合流する附近)に据えられている。 正面左右に「右ミよし」「左はまた」と並べることで、南から北への道しるべの役を果たす。逆の機能は無いというか必要がなかったのだろう。 現…
同じく吉田町にある地蔵堂の前に、種字を刻んだ記念碑が立っている。 享保13年に二百年の法要をつとめた記念として、平らな石ではないけれど凹凸は少ないので刻まれた字は白く映えて読みやすい。 その裏面は元々字を刻むことを想定していなかったのだろう、…