環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

石碑石塔

木陰の猫と社号碑

公園内の稲荷の境内は公園と同じような木陰をつくる。 鳥居や社号碑のような、縦に細い影を作る所よりは、木の枝葉によって作られた広い影の方が長時間い続けられる。猫は。

説明板諸相:萬象園の屋形燈篭・礎石

組織の沿革を綴る際、その場所以外の時代のことも触れるので、なるべく煩雑にならないようほどほどに要点を絞った説明が求められる。 組織ではなく施設、羽衣町の萬象園のことを説明するこの記念碑は、中央図書館の南隣の角地にある。庭園の石造物が移設され…

千田町の職安

千田通りに面した公園の前に立つ石碑は「広島公共職業安定所千田町庁舎跡」の沿革。 広島市における「公設職業紹介所」は大正9年の東松原職業紹介所と中央職業紹介所に始まる。 それ以降の名称や所管の変更が綴られる。当地千田町に庁舎が置かれた期間は、昭…

慰霊碑の背景

さらに市内中心部繁華街の中にある慰霊碑。 広島中電話局の跡地に設けられた慰霊碑で、被爆当日「職員、女子挺身隊員、動員学徒等451名」がここで被爆し約半数が亡くなる。 慰霊碑を囲む2面の壁の奥には被爆タイルが埋め込まれ、側面の壁に説明板がある。当…

舗装された路地と道しるべ

東本町。上野池にほど近い、民家を抜ける細い道に道しるべが立っている。 指し示す方面が合っていれば、昔からの位置のままといって差し支えないけれど、実際には道路や用水路の整備によって地面が変わらざるを得ない。

備後庄原駅から中央児童公園へ

その公園内には火野葦平の記念碑もある。「母マンの生誕地」碑。 以前は備後庄原駅前にあったが移転している。(Ingressのポータルはまだ現在地ではない) 移設間もないために地面がさっぱりしている上に、黒っぽい石に白い字なので読みやすい。

公園の中の文学碑

背の低い文学碑は、周りの木々によってより一層見えにくくなりやすい。でも定期的な手入れがある施設内なら、碑文が見えなくなるほどにはならないはず。 www.city.shobara.hiroshima.jp 中央児童公園の倉田百三文学碑(短歌碑)は植栽の中に点々と立っていて…

対照な見え隠れ

上野池対岸の丑寅神社。池入口に近い参道に注連柱が一対。 片方には生い茂る木の枝葉と蔓が三面を覆って、正面の語句が読みきれない。大体は見えるけど元の書体が読みやすいからか。 逆に、もう一方の柱は「心鏡煒煌」の語句がくっきりと示される。面の白さ…

コンクリート注連柱

鳥居と遊歩道の間には、大正15年の注連柱が立っている。庄原町(当時)の上本町組による奉納 鳥居などは彩色を更新できても、石造物を新鮮な姿に手入れすることはあまりなされない。苔むしたり黒ずんだりする方がが期待されている様子。

シンボルとしての鳥居と灯籠

「上野池の自然と文化を守ろう」という言葉を添えた、ポイ捨て禁止の看板。 イラストには池の中に立つ朱の鳥居と、公園入口の池畔に立つ灯籠がある。この二点とも近づいて触れるものではなく、離れて眺める物、周囲の木々や湖面や地面も綺麗でないと成り立た…

令和元年のカープの碑

その芳名板の隣には、広島東洋カープからの記念植樹と「感謝」の記念碑がある。 同じ令和元年11月24日。公園の景観は少しずつ更新されていく。

昭和5年の火村霊神碑

もともと「火村塚」が祀られていたのは西本町(西浦)で、昭和5年に現在地に再建されている。 現在地の「宮ノ下組」によって石碑が建てられ、平成27年には宮ノ下長寿クラブによって説明板が立てられる。

火村か木村か

その交差点の南西、備北地域事務所の角に「火村霊神之碑」が祀られている。 福島正則暴君説話の一つで、のちの領主の浅野氏に都合のいいというか、悪役にしても咎められないためにそういう役回りで定着してしまう。手討ちにされたという木村が誤読して火村と…

「ゆかりの」墓

安芸高田市向原町長田の山林に「尼子三兄弟ゆかりの墓」がある。 明治42年に修復整備された墓地には五輪塔が何基か配置され、宝篋印塔の一部が最奥部に据えられている。中段には後世に加わった仏像や「尼子三兄弟之はか」と刻まれた石碑が並ぶ。 実際には三…

用十郎墓地

地域の一般の墓地も、その立地や由来によっては史跡に似た解説を添えられることもある。 毛利元就および毛利氏墓所への参道途中に「用十郎墓地」を右手に見る。 墓地の沿革を説明した立札が立っていて、墓地の関係住民により道の改修がなされたことや隣にか…

参道の麓は少し旧状

被害を受けた細野神社境内は、修復により階段とその横の擁壁が作り直された。白い。 階段の数段目から真っ白でまっすぐな石で、麓の数段や周りの狛犬台座などは元の石を保っている。

石碑の復旧

移転するつもりのない石碑が、災害によって攪乱されてしまった後、傷を残しつつも元の位置に直された姿は、災害からの復旧を象徴する意味が加わる。 安佐南区の細野神社の麓に立っていた「定用水碑」と「熊野忠左衛門墓碑銘」が豪雨災害により土砂に流された…

可部の北の分岐

石碑に「南无阿弥陀仏」と蓮華の刻まれた道しるべが横川(南原川が根の谷川に合流する附近)に据えられている。 正面左右に「右ミよし」「左はまた」と並べることで、南から北への道しるべの役を果たす。逆の機能は無いというか必要がなかったのだろう。 現…

裏面は近代

同じく吉田町にある地蔵堂の前に、種字を刻んだ記念碑が立っている。 享保13年に二百年の法要をつとめた記念として、平らな石ではないけれど凹凸は少ないので刻まれた字は白く映えて読みやすい。 その裏面は元々字を刻むことを想定していなかったのだろう、…

灯籠に刻まれる字

吉田町の住吉神社に据えられている石灯籠は、手を加えない不揃いな面の竿石の比率が大きい。胴長。 大きめな字は、「萬延元」の紀年銘の面くらいで、他の面には細く小さな字が崩して浅く掘られているので、このままさらに風化したら文字があることもわからな…

粗い四面

厳島の参道にひょっこり立っている低い石柱は、上面を水平に均した方位盤が刻まれている。 普通の記念碑と違って、側面の四面よりも天辺を見てもらいたがっている。 だからというか、全体のバランスのためか、側面が平滑でないため刻字が凹凸に紛れてしまう…

河戸筋の要所

可部中央から西へ、柳瀬・今井田方面へ通じる県道は、可部線沿いの区間が着々と拡幅整備されている。 旧河戸駅の手前あたりは元々そこそこの道幅を持っていて、昭和の昔から簡易郵便局や商店が集まっていた所。 大字の中心地といった立地の名残として、警鐘…

駐車場の角の道しるべ

可部の旧道(可部駅東口に通じる県道及びその北に延びる旧可部町中心街)を、柳瀬筋へ別れる交差点には、以前(平成20年)石柱の道しるべが立っていたのを見かけた。 kanototori.hatenablog.jp それから年を重ねると、その道しるべのあった角地がコンビニに…

駅から三丁西

栄橋とそこを通過する道は、近代の市街地の道という性格が濃くて、 東詰の駐輪場脇に立つ道しるべには、「舊大本営」や「泉邸」への距離が示される。橋を渡らず北に向かうと饒津神社。どれも昔の絵葉書の定番にあたる。

花崗岩のモニュメント

猿猴橋の広島駅側には、平成28年の復元の際に造られたモニュメントがある。 復元前の親柱と欄干を使って説明板と共に立つ。 金属供出前の姿を復元したことで、黒との配色が目立つことになり、被爆時の石の橋の姿は説明板の写真で補足されることになった。原…

立てかける柱いくつか

鞆にある寺院をめぐる「鞆の浦古寺めぐり」の寺は19ヶ所あり、萬年山小松寺は大観寺と静観寺の間の順路。 寺号の「小松禪寺」の碑には小さめの古寺めぐりの看板がくくられ、「妙心寺派」の碑には「有髪薬師地蔵尊」の縦長の看板が前に立つ。 さらに手前には…

見える面と見えなさそうな面

階段の麓の欄干の親柱では、下側の面と内側の面が参道を行く人の視界に入るので、年月日や寄進者を刻むならその面がいいのだろうけれど、 その柱を使って別の器材を取り付けようとすると、刻まれた寄付者名が見えなくなる。「中」と末尾にあるので何かの団体…

文久の島屋

表参道の階段麓にも同じような手すりと親柱がある。 こちらは文久2年の奉納で向かって右には「島屋長右エ門」の名がある。 屋号の印の山と、「文」と「久」が、左右への払いを整えている。

脇の参道の手すり

天満宮の表の階段は西へ曲がりながら南北に通じる。 駅に近い脇の参道は、随身門の奥で別れる道。 その階段の脇の斜面は、崩壊防止の工事ではなく石垣によって固められている。 石造りの手すりと、さらに出されたステンレスの手すりが世代の積み重なりを表す…

昭和50年の擁壁

天満宮表参道の階段は急斜面をのぼるため曲折がある。 「篠尾山崩壊防止工事」により擁壁に斜面が擁壁に覆われたのが昭和50年。西側の駅近くの斜面が先に施工されている。 参道の石段とその縁に連なる玉垣は、擁壁のないころからあった石造物となる。周りは…