環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

玄孫の間隔

その人が亡くなって百年後に玄孫が活躍している、というのが前項で挙げた例。
その人が長生きしていれば玄孫とは幼少の頃に面識がある、というくらいの間隔で、近からず遠からず。

僅かに馬士歌(まごうた)の哀れを止むるのみなるも改まる御代(みよ)に余命つなぎ得し白髪の媼(おうな)が囲炉裏(いろり)のそばに水洟(みずばな)すゝりながら孫玄孫(やしゃご)への語り草なるべし。
寺田寅彦-東上記

という描写が典型。(曾孫とごっちゃになってるかも)
次の例は頼家と同じように代々の文人の号が連なる。

躋寿館は明和(めいわ)二年に多紀玉池(たきぎょくち)が佐久間町(さくまちょう)の天文台址(あと)に立てた医学校で、寛政(かんせい)三年に幕府の管轄(かんかつ)に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓(らんけい)、孫桂山(けいざん)、曾孫柳※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57)(りゅうはん)が死に、玄孫暁湖(ぎょうこ)の代になっていた。
森鷗外-渋江抽斎

※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の子は長を霜崖(さうがい)と云ふ。名は正旭(せいきよく)である。書を善(よ)くした。次を桂叢(けいそう)と云ふ。名は正望(せいばう)である。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂が撰(えら)んだ。
 桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の玄孫に當つてゐる。
森鷗外-壽阿彌の手紙


さかのぼって平安時代で見ると、源頼光の玄孫が頼政、というのが一例。

然り、革命の風雲は、細心、廉悍の老将、源三位頼政の手によつて、飛ばされたり。
彼は、源摂津守頼光の玄孫、源氏一流の嫡流なりき。然れども、平治以降、彼は、平氏を扶けたるの多きを以て、対平氏関係の甚、円満なりしを以て、平氏が比較的彼を優遇したるを以て、平氏を外にしては、武臣として、未其比を見ざる、三位の高位を得たり。
芥川龍之介-木曽義仲論

遡りつつ所かわって大陸中国の皇帝では、

さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に當る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する餘り、佛教を始め諸外教に對して激烈な壓制を加へ、その會昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアスター(Zarathustra)教(※(「示+天」、第3水準1-89-22)教)の僧侶を併せて、二千餘人或は三千餘人を還俗せしめ、外國出身の僧侶は、多くその本國へ送還させた。
桑原隲藏 大秦景教流行中國碑に就いて

唐の徳宗から武宗の頃、日本では桓武天皇とその孫仁明天皇の期間。