環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

帆立第一踏切

「堀立」の地名は中世まで遡れる。
『陰陽路の歴史と風景』の、
HARP: 中世地域経済の発展と広島湾頭 : "祇園"を中心として HARP: 中世地域経済の発展と広島湾頭 :
には、「佐東郡伊福郷堀立江」が載る仁安元年の文書が紹介され、倉敷地として賑わった名残を示す地名が挙がる。

堀立(現、帆立)・坪井は江戸時代には南下安村の小字として見え(『芸藩通志』巻四十三)、旧安川流路を挟んだ東隣、現在の西原一丁目付近には「佐東八日市」の遺名である上・中・下八日市の小字をとどめる(図3参照)。祇園市街地の南に位置するこの辺りこそ、かつて安芸国の地域経済活動の拠点として段賑をきわめた佐東倉敷の所在地であった。


もし「堀立」>「帆立」の前後関係ならば、先行して「ほったて」>「ほたて」の読みの変化があったものか。そうではなく「ほたて」が昔からの語形ならば、「堀立」よりも「帆立」の用字のほうが本来の意味を示すものと解釈される。さらには神武天皇伝承に関連する地名としてふさわしいと見なされることになる。そこまでの意図は無くとも、「昔はこのへんも海だった」「川船が行き来する古くからの町だった」ということを説明するのに便利な用字ではある。

可部線の帆立第一踏切は歩行者向けの細い道。古そうな「事故多発踏切」の看板が見える。

北の下祇園方面へはまっすぐだが、東の建物が線路に迫っているので見通しにくいかもしれない。

南を見ると、50mほど先の坪井川で左に曲る。