環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

芸藩通志での厳島古戦場

多宝塔のある丘には大内氏厳島での拠点「勝山城跡」碑が立っている。


藝藩通志』巻十七に「城墟戦地」の部があり、「多寳塔陣處」の項目がある。

陶全姜は、宮尾城を攻潰さんとて、弘治元年九月、兵三萬[或曰、二万七千、或曰六万九千八百、六万餘といへるは誤と見ゆ]を卒ゐ、島に渡り、先多寳塔に主将の陣を敷き、(略)

という。

「城墟戦地」の部は弘治元年の厳島合戦に関する記述のみであるので、六つの項目の排列は合戦の展開に従っている。

  • 宮尾城址:毛利氏が築き小早川隆景を配置
  • 多宝塔陣処[塔之岡・大師堂・有之浦・博奕尾]:陶全姜他が渡り各所に陣を置く。宮尾城を攻撃。元就が包ヶ浦から上陸し急襲。
  • 瀧町戦地:陶軍潰走。弘中隆包は瀧町で吉川元春らの追撃を防ぐが大聖院へ後退。
  • 青海苔浦上戦地:陶全姜は大元浦で態勢を立て直せず、青海苔浦まで逃れる。三浦越中ら戦死。
  • 龍が馬場:弘中隆包は大聖院から弥山を登り、龍が馬場で戦死
  • 陶全姜敗死所:青海苔浦から山へ入った所の高安が原で自害。房顕手記には大江という所とも。


史実がどうだったかは別にして、同時代の資料である房顕手記を基本に、複数の軍記物を比較考察した上で構成されている。

按に、此役のこと、陰徳太平記、後太平記、西國太平記などに委しけれど、大に異同あり、房顕手記を合せ考るに、陰徳太平記所記多く合へり、されば陰徳その實を得にちかし、但同書には、船手の戦の事見えず、