環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

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そんなわけで、鹿老渡の開発が近世以降のこととなると、その語源は古代の「韓亭」とは別のものに求められたりする。
新見吉治「倉橋島及鹿島の古墳」*1は副題として「(鹿老渡地名考)」とあるように、倉橋島南部の古墳発見例を鹿老渡の語源に絡めて考えている。
「この辺に夙く古墳の崩壊して石槨か石棺の露出せるもの」が「石のからうど」と呼ばれるものに相当するとして、現地の事例を確認している。
遠見山の小字岩谷にある古墳(もと遠見山古墳・現岩屋古墳)は、当時「行者の窟」*2と呼ばれた横穴式石室で、もしもこの石室が鹿老渡の語源であるならば、鹿老渡の開発されたという享保年間以前に既に石室が露出開口していたのであろう*3と推測している。
もしくは、鹿老渡の西隣の(棚田で著名な)鹿島では、開墾当時、山頂・山腹からたくさんの「石の箱」(箱式石棺)を掘り出したとの話を聞くとともに、畑の排水道として残る「石の箱」を確認している。同様の箱は鹿老渡の開墾時にも多く発掘されたと伝えられることから、「からうど」とはそのような遺構を指すものではないかという。

斎藤忠日本考古学史辞典 (1984年)では、

石のからと
石の辛櫃と書く。唐櫃すなわち、衣裳等の物を収納する櫃に唐の名をつけたのであるが、(略)江戸時代には石棺、石櫃、あるいは石室の類に対して呼称された。(略)

とあって、例として小野毛人墓発見時の「石のからとを見付」などがある。
実際、江戸時代の絵図*4に鹿老渡の地名に「唐櫃」の表記がなされていて、発音に忠実な「鹿老渡」に対して本来の語形を意識した*5「唐櫃」が用いられたものか。
「岩屋」も「石の箱」もどちらもある場所だけに、どんな状態を指して「からうど」と呼んだのやら。
近世後期の安芸国での「かろうと」の例を見ると、佐伯郡白砂*6村の「かろうと」は「当村戌亥ニ当リかろうとゝ申岩組御座候、」*7と表現され、高宮郡岩上*8村は村名の由来として、「当村往古カロウト申岩御座候由、其脇ニ平岩ト申大岩御座候而、其辺ヨリ上エニ在之村故、岩上村と唱候者歟」*9と記す。どういう物体なのかわからないのであんまり参考にならない。

*1:『藝備史壇』87.広島尚古会.大正14年

*2:「石槨内に何時の頃よりか行者様を祭るが故」

*3:もしくは他に開口した古墳があったろうか、とも

*4:寛文年間写しの『海瀬舟行図』。

*5:正しいかどうかではなく

*6:しらさご

*7:「国郡志御用ニ附下しらべ書出帳」『湯来町誌資料1』

*8:いわのうえ

*9:郡中国郡志』