環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

姫之丸

郡山の山頂に本丸があり、南に向いて二の丸、三の丸と連なる。それらを取り巻く曲輪が稜線に沿って全方位に延びていた。

「姫之丸」は本丸の背後に位置していて、近世の村では吉田村ではなく山部*1村に属する。
吉田村の「国郡志御用ニ付下しらべ書出帳」(文政二年以降)*2の「古城跡之部」に郡山城の曲輪(壇)の名前と面積が記されており、「姫之丸 二畝 城ノ後ロ山部村之内」とある。

そんな目立たない立地ということもあってか、百万一心の礎石と関連付けられてきて、近世後期にその石が出現したとか。説明板はこのように云う。

この壇に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化十三年(一八一六年)夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本にとり持ち帰ったと伝えている

宍戸氏の古跡を訪れた『弔古記』*3の末兼忠彰も、武田の前年、文化12年に郡山に登っている。そこには「吉田地下人覚書ニ云ク」と抜粋がなされ、「姫ノ丸丁間知レズ」とあるのみ。ほかにも「釣井ノ段」「イチヒノ段」「櫓ノ段」などが「丁間知レズ」としてあり、規模の数値は主要な曲輪に限った簡便な資料があったらしい。