元就墓所と嘯岳禅師墓所の間の道に、「広島県自然歩道案内図」がある。
西の麓の相合から、東の麓の四軒屋を結ぶ山伝いの道。さらに甲立方面へ*1。
東西の尾根伝いの道に対して、大通院谷が北に食い込むように峠をつくる。
山口の洞春寺の祐長老が答えた享保2年*2の「祐長老答国司広邑書」*3に、「同御廟所御灰塚抔之事」とある中にこうある。
御火葬之節沈香を積焼申候故其沈香之匂ひ郡山西北之方山之辺村*4と申所迄通したるにて右三日市より山之辺村へこす峠を沈が峠と今以申候
「今もって」沈が峠と呼ばれているという所がなんとなく誇らしげ。
また、長州藩士小川嘉右衛門による明和4年*5の見聞「毛利元就公御廟所之覚」*6にも言及がある。
峠より南に下った火葬場で焚かれたという沈香の匂いが峠を越えるほど。その葬儀の盛大さの表現のひとつ。その由来が本当だとすると、それと切り離された「陣」の表記は一般的な表記への安定化か。城跡も近いしで。