墓所にまっすぐ延びる石畳の道。その傍らに「洞春寺跡」の碑と説明板。
天正の菩提寺建立の後、広島・山口・萩・山口と、毛利氏の拠点の移動とともに洞春寺も移転していった。「祐長老答国司広邑書」の「広島へ洞春寺を被為移候節に参懸都而*1広嶋にて之御様子之事」の条に、移転後の墓所のことも語られている。(適宜改行)
但寺号を御引被成候寺は其儘郡山に残りたるにて
(略)広島之洞春寺御建立之後光永甚右衛門御廟参仕候処
洞春寺のあき寺江盗賊とも集り宿に仕候由承り及
夜中に甚右衛門忍ひ入寺に火をかけ一時に焼払
御廟参仕直様広島被帰中候々之仕形と只今も地下之者咄し申候
広島府十日市の洞春寺も、山口への移転*2後は堂塔を残したままで、「自然にくさり果たると申候」という扱いだったので、放置すること自体はそんなにぞんざいな行為でもないようで。実際にどうこうということはさておき、残った堂宇の焼失の理由が噂されるほどの事件として記憶されることに。