輝元の広島築城とともに洞春寺も移転し、城下の広瀬村へ。
洞春寺の鎮守として厳島大明神を勧請したらしく、それが現在の広瀬神社にあたる。
その辺の起源を『藝藩通志』は断定的に書いていない。
廣瀬社 (略)舊稱廣瀬辨財天、享保中に、廣瀬大明神と改めぬ、此地、毛利氏の時、洞春寺を置けり、故に當社、そのかみ其鎭守社なりといふ説もあり、(略)東照宮大祭の日は、神輿ここに遊行なさる、(略)
(巻八 安藝國廣島府三 祠廟)
名称が広瀬大明神に改まったのが前出「祐長老答国司広邑書」の頃。
元就公之御候跡は無之かと尋ね候得共広島之諸士町人百姓等に至迄成程古跡御座候十日市と申処に*1
元就様を神に祝ひ御座被成候御拝み被成候様と申候
という調査結果が記される。
それをうけて、正しくは「寺の鎮守に厳島大明神を御勧請被成社家迄御添置候」という神社であって、洞春寺移転後に寺跡は放置されたものの鎮守のほうは修復されて次第に社家も増えていったものだと説明し、
普請も奇麗にいたし明神之祭礼等も取行由申候それを所の者は不存*2元就公を神に祝ひ申候て有之と申し覚違申候
地元民が元就を祭神だと思っていると繰り返し、それは誤りであると強調している。