環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

草津港跡と住吉神社

第八公園の西南隅に、住吉神社が海を背にして鎮座している。広場部分がもと港湾部。

草津と古江の鎮守である草津八幡宮のサイト
草津八幡宮公式ホームページ 安芸国力箭山(行者山)鎮座 草津八幡宮公式ホームページ 安芸国力箭山(行者山)鎮座
によると、もと草津城の鎮守であった神社が、草津港の堤防上の現在地に遷ったのが文政5年*1のこと。『藝藩通志』(文政8年成立)の草津村の項に「近ごろ新田を闢き、又埠頭を築く」とある。

草津村の「国郡志御用下しらへ書出帖」*2(文政2年)には、

住吉 壹社
 但先年松平周防守様御船入御座候節之鎮守ニ御座候、其以来有來候町裏川端ニ御座候、

という、移転前の状態を記す。「松平周防守」はwikipedia:浜田藩松平家のことで、同家は宝暦9年に転封され、本多中務大輔家が浜田を治めること十年、明和6年*3に再び松平周防守が転封されている。
同「国郡志御用下しらへ書出帖」では「村内土地古今相違之様子」で触れている。

且又先年本多中務太輔様御船入之場所御座候由此年間相知不申、其後寛文二辛丑年より松平周防守様御船入御座候而御茶屋并御船頭水主衆之長屋御建前等御座候處、宝暦九年卯年之頃ヨり右御構相止ミ(略)


寛文2年*4から宝暦9年*5ごろにかけて浜田藩の駅として利用されたため、草津の町屋には御茶屋や船頭たちの長屋などが建っていたという。治世が短かったこともあって本多家の記憶はあやふやな様子。

*1:1822年

*2:『新修広島市史第六巻』所収

*3:1769年

*4:1662年

*5:1759年