三之瀬の東、上蒲刈との間の瀬戸を『蒲刈志』「蒲刈名議」で「三之瀬ノ瀬戸」とし、古くは「浅黄ヶ瀬戸」と呼ばれていた所であろうとしている。
是ノ島ノ瀬戸ヲ世俗三之瀬ノ瀬戸ト云、浅黄ヶ瀬戸ト云ハ此ノ瀬戸ナルベシ、按ルニ神功皇后三韓征伐之トキ御船路ノ記行ヲ書ス巻アリ、其中ニ云、アサギガセトヲコヘテ御船ヲ蘭ヶ島ニ停メタマフトアリ、(略)
いかに古くから開けていたかの証拠として持ち出される神功皇后。「御船路ノ記行」にあるという「蘭ヶ島」が蒲刈のあたり*1を指すらしいという認識があるので、他地域の海峡のことではないであろうとなる。
「三之瀬」の語源もそれらとの関連で考察されて諸説が列挙される。
- 兵器舟船の備えがあったと伝えられる港であるから、もとは「三之関」であり、「下ノ関上ノ関第三ノ関ナリト」
- 満ち潮の時、向浦側(上蒲刈)では南に、瀬戸の中ほどでは北に、三之瀬側(下蒲刈)では南にと、「潮ノ流三筋ニ分ル故ニ三之瀬ト」
- 「豊島瀬戸・大浦瀬戸・蒲刈瀬戸三ツメノ瀬ナルカユヘニ三之瀬ト」
先に見た白崎園の碑で、「白崎」の由来が列挙されていたのと同様、単なる地理的条件による由来よりも、城郭なり海関なりの人事を起源とする話の方がひきつけられるものがあるのかもしれない。