環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

皇紀の使われ方

前項の「理窓院縁起」碑引用部分、「康永三年(二〇〇二年)」とあるのは西暦ではなく皇紀、と思ったら、北朝年号康永三年は2004年だった(wikipedia:1344年)。他の部分は合っている。

ハート型のような横長の石碑には、天平14年の粟屋村大平への行基巡錫に始まり、宍戸元源の現在地移転を経て、嘉永2年(2509年)の記録焼失までがひとまとまりの文章として刻まれ、それ以降は境内堂宇の建立・修理について箇条書されている。安政3年に本堂の建替え、昭和55年に本堂再々建があり、その本堂の傍らにこの碑が翌年に建てられている。
寺の歴史を皇紀に即して区切ると、2000年以前は史前の伝説の段階、現存の楼門が2000年代初期に遡るとしてそこから2500年頃までに出来事や記録が蓄積されていき、記録の焼失以降は再建・修復・再構築に力が注がれていった、ということになる。そしてそれらを一覧するこの碑の建立は昭和辛酉年(2641年)。


さて、このブログの過去記事で「皇紀」に関するものは6件(たぶん)。石碑が5件と書籍が1件。

平成8年「皇紀二六五六年」

昭和18年「紀元二千六百三年」

昭和15年皇紀二千六百年」

昭和15年皇紀二千六百年」

昭和11年皇紀二千五百九十六年」

文政2年「紀元二四七九」


当然ながら、昭和15年の記念事業に関するものが多く、これら以外でもあちこちで目にする機会は多い。
長門島之碑や堤平神社は昭和15年に前後するものの同時代。弘住神社の場合は現代のもので、西暦も併記されている。
佐伯郡誌』のように書籍上で現れる場合は、記念碑のように建立時点の現在に限らず、過去の出来事にも皇紀が当てはめられる。理窓院縁起はこちらの使い方に近い。現在も西暦で同じようにあてはめるわけで、当たり前の作業といえば当たり前のことで。
西暦にしろ皇紀にしろ、三桁も四桁も続くような紀年法は、あくまでも非日常の用に供する為にあるにすぎないのよね、というスタンスもあり。