矢野村の「下しらべ書出帖」では「火ノ釜」という古跡も「西崎山」のものとして登場する。
此火ノ釜ト申スハ御建西崎山の内二三ヶ所有之、何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方ニ御座候、古ハ何之為メニ相調候物歟申伝ハ無御座候得共、童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候
「火ノ釜」も「こもり塚」も県内他地域でも見られる名で、横穴式石室が開口した状態に対しての近世の人の呼び習わし。北隣の奥海田村では「籠塚」として記載されている。*1
西崎山の古墳は団地造成で消滅しているが*2、円墳が点々と存在していた頃の様子は『広島県矢野町史 上巻』(昭和33年)に見られる。
矢野の古墳は町をめぐる北と南の丘陵に存在する。北尾・西尾・丸古・ゆずり城・三つ城・九つ城・狐ヶ城等丘陵の上に点々と饅頭形の封土が見られるが、今の人々はこうした円丘を「城」と云う名で呼んでいる。九つ城とは九つの円墳が並んでいたのであって、この呼び方は安芸地方に広く行われている。
墳丘の盛り土が残っていれば「じょう」と呼ばれ、石室が露出して開口すれば「火の釜」や「籠り塚」と呼ばれた、ということになるが、どちらの名前も当時の人が古墳と知った上での呼称ではないことに注意。似たような形の土盛りや洞穴があっても呼び分けるとは限らない。
*1:畝観音免古墳群 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100409/1270826870
*2:西崎東古墳・西崎西古墳・西崎古墳いずれも消滅