環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

ほかの「人穴」三例

高宮郡の「人穴」三例の記述が似ているから、そのうち2ヶ所が古墳ならあと1ヶ所も古墳だろうという推定ができる。しかし他郡の例を見ると同じ名前でもバラバラの認識が集まるだけ。
豊田郡大浜村*1にも、古墳の石室を「人穴」の名で記載してある。


黄幡山人穴 海辺ゟ凡壱丁余リ山根ニ土穴九ヶ所御座候、高サ凡六尺広サ壱間斗も御座候、入込ハ凡九尺斗リニ而深サハ相見ヘ不申候、穴之内両方石築上ケ上之方ハ長石ニ而渡し口狭ク、奥ハ板戸ヲ立る如く平石を二枚立誠ニとを立候様相見ヘ申候、此戸石ゟ奥ハ如何御座候哉夫ゟ先キ見受候もの無御座候、是レハ神代之昔シ家居無御座候以前、土穴ニ住居仕候而土蜘蛛と号候由伝ヘ承リ申候、此穴も全ク是等ニ相当リ候様被相考申候、誠ニ穴中深く数千年以前ニ作候様ニ相見ヘ申候、尤三ツ之内壱ツハ崩レ居申候得共、今猶奥之分ハ築石少々相残居申候、折節穴近辺ゟ土瓶等掘出し候事も御座候得共、多く折割損シ申候ニ付其儘其辺ヘ打捨置申候
*2

積石の寸法や配置、散らばった土器片など、大毛寺村以上に詳細な状態記述とともに、「神代之昔」とか「土蜘蛛」とか「数千年以前」とかの具体的な意味付けを伴っている。


同じく大昔に遡る伝説と結びつけられた「人穴」に、佐伯郡宮内村(現廿日市市)のものがあるが、どういう穴を指してのことかよくわからない。文化三年の『郷邑記』に記載があるものの、後年の『書出帳』には載っていない。

狼原山ノ下川ノ辺ニ有リ、洞穴也、民間ニ云伝ふ往古恙トいへる虫降し時人穴ニ住り、依而今の世ニ無恙ト云ハ古言ナリト、此類ノ穴所々ニ有也
*3 


はたまた、安芸郡矢野村(現広島市)のように、「火の釜」や「こもり塚」で石室の開口を呼んでいる所では、それらとは別のものを指して「人穴」と呼んでいる。

此人穴ト申スハ絵下山之麓しやうゆ迫ト申所ニ有之、堅横凡そ弐間四方、高サ四尺位有之、戸口三尺四方、真ン中カニ煙出しとも思しき小キ穴有之、山絶頂に抜通り候、古へ何ニ取用候物ト申義証跡ハ申残ラス候得共、先年炭を焼タル釜カト申ス童之説も候得共、当時異ナル穴ニ有之、前々ゟ人穴ト唱来申候

「煙出しとも思しき小キ穴」と説明しつつも、炭焼き窯のようだという説は退け、前々より「人穴」と呼ばれているものの由来が不明な人工物であるという報告。
全国的に有名な「人穴」は富士講の聖地の溶岩洞穴で、富士講と縁の薄い地域でも御伽草子の「富士の人穴草子」によって知らていただろうけれど、それと広島県域の「人穴」がどう関連するのやら。

*1:のち豊浜町・現呉市

*2:『豊町史』・『豊浜町史』所収

*3:廿日市町史』所収