現在は「中河原橋」の架かっている上安と相田境。
織田武宣『安川筋の郷土史 安川紀行』(昭和63年)の「中河原橋」の節にて、橋がなかった頃の交通事情について古老の聞き取りを載せている。橋がなくとも飛び石伝いに渡れたという、そんな地点なので村と村の境となる。
川舟で広島方面へ農作物を運び肥料を運んで帰る、古市橋(軽便鉄道)と馬車が行き来していたこと、徒歩では川沿いに大町古市橋祇園横川を経由する道もあれば、尾越から水越峠を経て山本へ出るルートで広島へ行くという道も使われた。
「夜中の二時ころ、大八車に桶を二荷分と野菜を積んで家を出た。野菜を横川の市場に出した後、八丁堀の福屋の辺りの家で肥を取って、昼ごろには帰っていた」
といった戦前(日中戦争中か)の経験談が記されている。