環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

第六潜水艇記念碑

「半潜航」の説明が関係者各人ばらばらだったりのあれこれで、査問会査定書には「艇長の浅慮」ということにされてしまったりしたものの、沈没後の行動は美談として、「不運なチェーン切断」として報じられつつ。

「第六潜水艇浮上せず…」―漱石・佐久間艇長・広瀬中佐
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の、「五、第六潜水艇遭難事故に対する内外の反応」による。
事故の翌月、明治43年5月4日には一時金を下賜する勅令が出される。4月22日の新聞紙上に沈没艇同情者寄付金の呼びかけがなされた。集まった寄付金のうち遺族贈与金に35,000円を、鯛の宮に建立する記念碑には22,336円を用いた。
当時の外観は、「一部煉瓦造の円柱塔で、正面銅板の題字「第六潜水艇遭難記念碑」は海軍大臣斎藤実の揮毫、裏面の碑文は平岡貞一の文章による。」
そして昭和の戦後、「現在では、昭和三十四年の修復工事をへて塔下部の石の台座をうがち第六潜水艇遺品の通風筒のスルースバルブが内部に納められている。」円筒の下部の銅板には、佐久間艇長の遺言と乗組員の住所氏名年齢階級が記されている。
この記念碑のほか、呉市蔵本通と遭難地近くの岩国市に記念碑が、佐久間艇長の出生地前川神社*1には記念館が、小浜市には銅像がそれぞれ建てられた。