環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2015-11-01から1ヶ月間の記事一覧

河原地蔵と塔

太田川に帆待川が合流した地点のすぐ下手。河岸一帯は近世には下町屋村の飛郷だった「小松原」。中世の太田川旧河道が東に流れていた。 整頓された地蔵と五輪塔は道路の曲がり角に佇んでいる。

五輪田

その寺山の近くには「五輪田」という地名がある。 東寺山南ノ下五輪田 一、古墳 台石一ツ二尺三寸四方高一尺八寸上石ナシ 此墓何人ト申事相知不申五輪ノ田道ノ端ニ御座候 『文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳』1994.可部郷土史研究会 五輪塔の大…

寺山の西の仏

同じく可部町上原、寺山にある石仏群のうち、摩崖仏や舟ヶ谷観音などの集まる西の斜面。 自然石の祠の中におさまる石仏と、それが見えるのを遮らない程度に積み重ねられた石塔の部材。 さらに手前の手水鉢の大きさも大きさも同じスケールで小さな庭を形作る。

お堂の脇の集積

世羅町の真ん中で、車道に面した辻堂が遠くからも見える。 背後のコンクリートの地面に集められた五輪塔たち。 もとの組み合わせとは違っても、そろっていない組があっても、一箇所に集められることで存在感を保てる。 かわって所は可部町上原。 ブロック塀…

寺の跡の塔の石

竹原市の歴史民俗資料館背後にある2基の石塔。2基とも3基とも4基とも、はたまた総て1に満たないとも見える。 寺の跡から出土した物なので、複数の塔の部分の組み合わせが現在の姿。宝篋印塔の一部の上に五輪塔が乗る。 苔むした路傍の「素朴な」石でいるつ…

鞆を見下ろす宝篋印塔

鞆の医王寺の見晴らしのいい位置に立つ宝篋印塔。 高い台座が無くても周りから形がよく見える。 島を背にして正面に「宝篋印」「神咒塔」の六字と梵字。

読み取りやすい部分

塔の四面に刻まれた文言が目線の高さで近ければ、あとあと読んでみようかというつもりで写真におさめるが、 高い位置にあって刻字が明瞭そうでない場合には、とくに読むためでなく全体をおさめて済ませようとする。(カメラが古すぎるのでもある) そんな撮り…

石塔と空間

境内後方にある宝篋印塔。 入口の石仏ほどに周囲の装飾はないけれど、その台座の高さで人に見上げさせる。 後方が史跡公園として広場になったのでだだっ広い。

野ざらしが通常

入口の西の脇には石の囲みに飾られた石仏が一体。 台座の石の形から、上に収まるのが石仏ではなく石塔であっても不思議ではない。 石仏だと屋根付きの祠も普通に見えるが、五輪塔などが屋根の中に収まると、いかにも保護されている感じが強い。

玄関マットと裏手のほこら

小さくまとまった祠にもちゃんと足拭きマットが置かれている。 中に人が上がるわけではないけれど。 本堂の奥の木立の中にも祠が一箇所。 玄関マット(を細かくしたような数片)が手前に置かれている。足元を照らす明るい緑色。

屋根のある二体とその裏

その木の奥にはコンクリートとトタン屋根でコンパクトにおさめられた二体の石仏。 お供えの調度もちょうどよい大きさで、花の茎が長いけれど葉が覆い隠すことがなくすっきり。 その祠の裏に小さな石に彩色の像(随神?)。

樹洞がほこら

その寺号碑の傍に、かつて枝葉を茂らせていたであろう木の根元が1メートルほど残っている。 縦にまっすぐ隙間を作る樹洞の中にすっぽりおさまる小さな石(仏?)。 雨を防ぐのは切り口に被せられたトタン板。

安芸国分寺門前

愛郷廟に「産業功労者」として名を残す石井茂樹氏の名は安芸国分寺でも見られる。 平成8年揮毫の寺号碑は享保の石灯籠の傍らにある。

西条の功労者

西条の御建神社近くに鎮座する「愛郷廟」*1 「旧西条町出身の殉国犠牲者ならびに旧西条町発展のため貢献された特別功労者の方々の英霊に弔意と敬意とを表するため」創建・再興された。 「護持功労者」に加えて「産業」「教育」「自治」それぞれの功労者も名…

大沢田公園

池のほとり、病院入口近くに整備された公園。 見たときは出来立てといった感じの白っぽい土の色。 公園の名の揮毫は東広島市長。

池のほとりの療養所

家にたどり着くまでに一時間以上かかった。道中はよく覚えていない。家で 死にたいという思いだけが頭を巡った。最近になるまで、病院近くに大きな池があることも知らなかったという。周囲の景色を見る余裕などなかったのだろう。 『満身これ学究―古筆学の創…

寺家の療養所

広島駅(広島鉄道管理局)にて被爆した小松茂美は寺家(現東広島市)の傷痍軍人広島療養所に入院する。(吉村克己『満身これ学究―古筆学の創始者、小松茂美の闘い』(p24)) 病院の概要/独立行政法人国立病院機構 東広島医療センター のページに東広島医療…

小松茂美の書

その恵毘須神社の奥、といっても背後の団地にはほど近い社殿のかたわらに立つ小ぶりな石碑。 「敬神」の揮毫者は文学博士の小松茂美。昭和61年は東京国立博物館を退官した年。

「恵毘須」

その昭和6年*1の石鳥居の額は「惠比須神社」との表記。 社殿内の木の額や芳名板には「恵毘須神社」ともある。 「えびす」の「び」に「毘」が使われる例は多くはないにしても珍しくはない。逆(?)に「毘沙門」が「比沙門」になることはなさそう。 *1:注連柱…

鳥居が記念碑

同じく山道の途中にある石鳥居には安村(当時)の村長の名前が刻まれている。 奉納の理由はもう片方の脚に。 「昭和三年六月下旬災害復舊」の記念碑として。

絡まる注連柱

参道半ばの注連柱にも蔓がからまっていた。 葉の生い茂る時なら文字が読めないところだけれど、「圀土安全」「五穀豊穣」の上の辺りが隠れてても見当を付けやすいオーソドックスな衒いの無いフレーズ。則天文字が隠れるとあてずっぽうになるが。

表面の歳月

苗字が変わって、ブログタイトルも変えようかと思案中の今日この頃。「目」の要素は残るから今のままでもよいのだけれど。さて、閑話休題 同じく安佐南。 高取南の平和台団地の先端に位置する恵比須神社。 参道入口と社殿横に一基ずつ灯籠がある。山上の物は…

燈籠の多い参道

といった、補修が加わって立ち続けている燈籠が多い二宮神社。 中には文久3年の「南部山氏子中」による大きな燈籠のような(繋ぎとめられつつも)頑丈な物もあり。 参道両脇に整然と立つものもあり、入口階段をどっしりと見守るものもあり。 様々な目で見守ら…

灯篭の継ぎ

その鳥居の傍らの石燈籠は大正8年。 石材を固定するセメントが溢れるほどに白。 社殿のある上の段には石積みの上に高く置かれた昭和6年の燈籠。 こちらもくっつけてあるのでそう簡単に倒れたりはしないのだろうけれど、ロープで囲い、「関係者以外立入禁止」…

鳥居のつぎあて

その安東の二宮八幡に鳥居は一基。とくに額はない。 境内の石造物の中では古いほうの明治24年奉納。 脚の上部、「奉寄進」の上に補修の金具が見える。穴を開けて貫の差し込んであるところも隙間を固めてある。

二ノ宮

廻神の二宮神社では漢字の「二」に平仮名の「の」の額だった。 安佐南区安東の二宮神社では「二宮」と「二ノ宮」の例があった。 片仮名の「ノ」が使われると、とたんに漢字の「二」も片仮名に見えてくる。

扁額の「の」

木の鳥居には木の板の額。 二宮神社の額は笠と同じく赤で縁取られている。 埃宮の額にも一部側面が金属で保護してある。 どちらも助詞の「の」「ノ」が右寄りに小さくしてある。 埃宮の石鳥居の方では「ノ」も漢字と同じ中心にある。ので多少窮屈な配置。

硬い貫

安芸高田市の埃宮。 木の鳥居、の中の脚をつなぐ貫がコンクリートで白い。 全体を支える土台も個々の石ではなくコンクリートの面。脚の根元もずぶりと埋まっている感じ。

被せる金物

両部鳥居の脚の部材にはところどころ金物が被せてあって木材を保護している。 先端を覆う形が丸い蓋状であったり笠や擬宝珠であったり、向原の八幡宮のように横木全体に被せたり。 以上が三次市廻神町の二宮神社。鳥居全体の笠は赤いトタン。 下が高杉町の知…

落ち着かない脚元

まず生活が落ち着かない。 木材の切り口が土台の石とぴったりくっついていなくて隙間があると安定感がなさそうに見えるが、足の多い鳥居なら長年月にも耐えられそう。 隙間があるぶん、水分が溜まりにくくもあるか。