環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

遺跡

公園の端の三十人の墓

宍戸氏館跡の説明板のさらに上の段は遊具のある広場(貴船神社旧地でもあり)。 神社の名残の注連柱の側に整然と並ぶ墓石。説明板は「三十人の墓」と題する。陶氏と毛利氏の合戦の死者を弔うものという。

海老山の北

旭園と海老園の間にある小山が海老山。 埋立により周囲が陸地となっているが、古くは北側にも海が入り込んで一つの島だったという。 山の北の斜面は幾段かの公園になっていて、「宍戸氏館跡」の説明板もある。館跡は麓の軌道敷や国道2号のあたりにわたって館…

立町口御門跡の交差点

広い大手郭の南東角は外堀と八丁堀の交わるところ。外堀があったころの大手郭から南へ通じる道は一丁目口御門・研屋町御門・立町口御門の3ヶ所。それぞれの遺構の位置に「広島城城郭等位置図」の案内図がある。細い石柱なので交差点の角でも場所をとらない。…

大手郭跡の中央

そのパセーラ入口の植栽に説明板がある。ここが広島城跡の一部「大手郭(外郭)跡」であることを説明している。 現存の内堀を包む郭が三の丸などで、その三の丸の南と東にあった大手郭は中堀と外堀に囲まれた武家屋敷の区画。個々の遺構の場所ではなく郭全体…

広島城の暗渠跡

地下道の広島城御門橋近くのスロープに「広島城の暗きょ跡」がある。 kanototori.hatenablog.jp 過去にそのことは掲載していたけれど、それも随分昔。写真は平成18年。(文章と写真が別リンクなのは、はてなダイアリーのインポートにより「今日の1枚」が分離…

説明板諸相:三の丸の井戸

その「明治天皇の御用井戸跡」の説明板が囲いの四辺に掲示されている。 井戸脇に立てられている石碑が「聖蹟」と題して日清戦争当時を偲ぶのに対して、広島市が新たに設置した説明板では広島城三の丸屋敷の井戸として使われていたことまで遡る。

井戸の周り

中央図書館とひろしま美術館の北辺にある緑地は渝華園の移設が大きな変化となる。さらに緑地の一部が遊歩道に変わるところもある。 城南通りの歩道にある明治天皇御用井に突き当たる位置に新たな歩道が開かれる。歩道側から見ると二の丸への御門橋が背景とな…

誓願寺の故地

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?page_id=25623 平和記念公園の被爆以前の街並みが現在に地図に重ね合わせられたのか、上記リンク先の「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」。 公園南部の資料館前の広場は材木町にあたり、誓願寺の境内が大半を占めて…

二の丸の内側

二ノ丸の周囲の櫓は復元されて展示施設となり、馬屋や井戸などの内側の施設(江戸後期)は地面に表示を施して配置を示している。 菊花展などのイベントの際、遺構配置と説明板の存在がレイアウトに影響する。

園内の古墳の活用

同じ展示の中で、今の活動として三次高校と日彰館高校による「博学連携」が紹介されていた。 展示されていたのは、みよし風土記の丘の七ツ塚第5号・第6号古墳の測量図など。 https://www.miyoshi-h.hiroshima-c.ed.jp/jsh/zen_volunteeretc.html 三次高校の…

平成3年の船場石橋

ということで未年の地蔵祭りを巡った時の写真なので平成3年か。 本町通りの川下に架かる「船場橋」、の当時の写真。幕末に造られた馬門石によるアーチ橋。 https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/415290/ 熊本地震による破損により解体復元成って現在の姿…

原爆ドームの北と南

原爆ドームは柵に囲まれて立ち入り禁止。元安川に面した西側には柵の前に植栽がワンクッション。 南の角、ツツジの切れ目近くに世界遺産原爆ドームの説明板がある。 kanototori.hatenablog.jp その裏手に説明板の位置の案内がある。 電停に近い北側には世界…

伐採の跡

宮島の大願寺九本松は令和2年末から3年初めに伐採され、切り株と囲いを残して文化財の説明板は伐採の経緯の説明板に置き換わった。 下の写真は平成19年のもの。

天守台の説明板

歴史上の人物の周年記念の事業を行うには、十年単位だと小刻みなので百年単位になる。 三原城跡の「隆景公園」では堀を挟んで「天守台石垣」の説明板がその規模と工法と修復の事績を誇る。「小早川隆景公四百回忌記念」で平成8年。

町史跡と県史跡

https://kanototori.hatenablog.jp/entry/20130504/1367689845 安芸高田市の福原氏墓所は、道標の石碑が田の辻に立って戦前から目印となり、山の麓近くでは吉田町時代の案内図が墓所と城址の位置を示している。 墓所と城跡の分かれ道になる辻には同じ形の道…

フェンスの奥の天守

城の反対方向の中央公園は工事の最中。発掘調査をしているアピールに乏しく、まるで本丸と二の丸だけが広島城かのような将来像。

城内の城下町

姫路駅北口の前に姫路城外濠があった。北の国道2号辺りが中堀で、その間の広範囲が町屋や寺院の集う外曲輪。 「塩町」「魚町」「紺屋町」「呉服町」といった町名が連なる城下町らしさに、広島城下の西国街道沿いを思わせる。広島の川や海が「天然の堀」と言…

塀の有り無し

「中央公園」の名が「城址公園」だったら、早いうちから城郭の遺構を表示する物が整備されていたのかもと思ったりする。 観光地としての広島城は二の丸と本丸に限定されていて、三の丸跡は観光バスを停める所でしかなかった、というと過言になるけれども、表…

昨年の仮囲い

昨年9月には既に中央公園は仮囲いで覆われていて、城南通り側の公園入口各所にお知らせ看板が立てられていた。 業務委託期間としては7月1日から、仮囲い設置は8月3日から。赤い線はスタジアムの建設範囲でその中のスタンド基礎工事部分が「A区」と「B区」…

厠跡

掲示してある図面から、フェンス越しに見える遺構がいくつかわかる。 区画の中では奥の方にある「厠跡」。残っている部分に高さがある。

中央公園中央の遺構

その一本道の西側には、発掘調査区域のB区が広がる。 www.city.hiroshima.lg.jp 広く囲まれた区域の真ん中は掘削土の置き場で盛り上がっている。本川に近い方がA区。 7月の現地説明会資料「近代遺構配置図」がフェンスに掲示されている。現在地の印付き。

生誕の地と周辺案内

「鈴木三重吉生誕の地」記念碑はエディオン外壁に取り付けられているレリーフと金属パネルの2枚が展示されている。 昭和63年に当時のダイイチに、令和元年に現在の東館ビルへ設置。 設置の当初から、現在の紙屋町の一部が猿楽町であることは説明に含まれてい…

八丁堀パノラマ

そのカモツルオアシスの角には原爆被災説明板がある。 被爆後の11月の「八丁堀一帯」の写真を収めているので横長。建物が残っていたら周りのビルしか写らなかったか、建物疎開で一部遠くが見えていたものか。

鏡山城跡道しるべ

東広島の鏡山城跡も、大きな史跡名の石碑が入口にそそり立つ。 kanototori.hatenablog.jp 公園緑地から山道に入ると城跡はこちらと案内表示が導く。 木製と金属製、同じことを指し示す立て札が並び立つ。木が朽ちるのを待つように。(写真は平成20年)

天主台の高さ

三原駅の一階から階段を上がって三原城跡天主台に入場(入園)できる。 駅建物の中の階段から外に出たところで、さらに駅壁面に沿って階段を上がる。 駅の防音壁は天主台よりも高い位置にある。

駅から天主台

三原駅構内には三原城跡の天主台への入口がある。 天井にぶら下がる案内に、「開園時間」が6時半から22時までと表示されていて、 入口階段近くでは「入場無料」と大きく表示されている。いずれも「天主」の表記。

外郭櫓跡

川のほとりの案内板には、昭和58年に護岸工事が完成したとある。 その工事の過程で発掘調査が行われ、昭和54年に外郭櫓跡が確認されている。比較的新しい説明板のあるあたり、空鞘橋の下手に南から4番目の櫓があった。

継立場跡の公園

東広島郷土史研究会専門グループ: まちの歴史は郷土の文化財 西条酒蔵通り歴史庭園(ヒストリアガーデン)がオープンしました。 平成28年には歴史公園が整備され、近世四日市宿や酒造に関する展示案内の場が整った。 継立場を担った小島屋の跡地ということで…

被爆鳥居の脚元

広島護国神社の鳥居は、広島城本丸にある社殿正面の一基と、広島城跡東側入口(RCC中国放送南)の一基とがある。 城跡内に入る車は必ず(?)潜ることになるのが東側入口の鳥居で、護国神社が旧地にあった時には爆心地から330mの近距離に立っていた。 「広島…

教材としての群集墳

展示の半ば、『高等学校と考古学の「今」』の章では、歴史民俗資料館と地元高校の連携事業が紹介される。平成30年から令和2年にかけて実施された課外活動から「七ツ塚第5号・第6号古墳測量図」が作られている。「限られた古墳しか詳細な測量図が無い史跡 浄…