環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2014-07-01から1ヶ月間の記事一覧

青古墳群

「ひろしま昔探検ネット」(遺跡分布地図)の 遺跡分布地図 F-10 の範囲がちょうど「可部古墳群」を構成する各古墳群を収めている。東から「九品寺北・南古墳(旧称:九品寺古墳群)」「城ヶ平古墳群」「上ヶ原古墳群」「原迫古墳群」「青古墳群」「給人原古…

上ケ原の斜面

上ヶ原砂防堰堤*1から南へ流れる帆待川を境に、東に上ケ原古墳群、西に原迫古墳群が分布する。大毛寺と中野の大まかな境でもある。 上ヶ原で近年発掘されたのは標高134mあたりの第34号古墳。過去に確認された三十数基の大半は現在の可部6丁目の住宅地に含ま…

上ケ原の人穴

学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館 の、 「江戸時代の人が見た可部古墳群」(2011.5.13)という記事に「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」(大毛寺村)の「上ケ原神代人穴」が紹介されている。発掘調査によって寛永通宝が見つかった石室もあることに触れ、「…

古墳のお供え

古墳の石室が露出しているところに賽銭が撒いてある例というのはあまり目にしたことがないけれど、西谷1号古墳(海田町)の花や、御年代古墳*1の石棺上の小皿など、墓所への接し方の現れとしてお供え物が見られることはままある。 中国新聞アルファ 古墳と知…

散らばる銭

それらの石材が白黒の模様を見せる中に、点々と小銭が散らばって反射している。(平成22年の実見) 古墳に対しての供養の意味か、それとも別の信仰の対象として捉えられたのか。 石室の中を覗きこんでも小銭がたまっている様子も無いし、開口部にも散らばっ…

岩の模様

自然観察とかアウトドアの文脈では古墳は取り上げられないだろうなと思ったら、そうでもなく。 龍王山の自然と遺跡 - 東広島市自然研究会 憩いの森を「地形と地質を中心に」見た時に、古墳に使われた岩石に注目が集まることになる。とくに新立1号古墳は「“捕…

新立1号古墳

公園内を巡る林道から2本の道が分かれていて、一つは竜王山の登山道の続きになり、一つは「新立1号古墳」への道。入口に古墳の説明板がある。ほかの古墳は標柱が立ててあるだけだが、古墳群の中で最大なだけある。 現状の石室は、天井石の一部を欠いて上から…

花が迫古墳群

寺家村の山裾に散在した「火の釜」のうち、現状を確認しやすいのが「憩いの森公園」内の「花が迫古墳群」。 半尾川*1上流に広がる公園で、近世の村では寺家村と吉行村が接して入り組んでいる谷間。 公園の案内図では開口した石室が記号になっている。砂防ダ…

賀茂郡の火ノ釜(ニ)

賀茂郡寺家村の書出帖の記述は以下のとおり。 火之釜 凡入二間幅壱間深サ六尺斗廻り石垣にして上に大石のひらなるを置く上古木巣穴居の遺跡なるか或ハ落人の隠家ともいひ或ハ人皇廿六代武烈天皇の御宇苛虐の政行ハれける故かやうにては後ハ火も降るべしと人…

賀茂郡の火ノ釜(一)

賀茂郡ではもっぱら「火の釜」の呼称でまとめられている。 『国郡志御用郡辻書上帳 賀茂郡 文政二年卯五月』に「寺家村熊野跡村書上帖ニ相見」と、記載のある2ヶ村を挙げるだけでなく、「西條庄高屋庄之内に数々有之由」と、記載していない村々にもあると補…

安芸郡の籠塚

矢野村の「下しらべ書出帖」が「童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候」と書くように、安芸郡内では「こもり塚」(籠塚)の名で記載している村が連なっていて、「火ノ釜」よりも一般的であったらしい。 奥海田村は既に見たように「百姓腰林之内…

矢野東の古墳(ニ)

もう一度「火ノ釜」の形状についての記述を抜き出すと、横穴の寸法と石組みの出来と間口の広さが調べられている。 何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方 それらの西崎山や近隣の…

矢野東の古墳

矢野村の「下しらべ書出帖」では「火ノ釜」という古跡も「西崎山」のものとして登場する。 此火ノ釜ト申スハ御建西崎山の内二三ヶ所有之、何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方ニ…

西崎

海田の毘沙門堂から矢野方面を眺めると、東から西へ突き出た西崎山の形がよく見える。矢野中学校の校舎も見えて造成で均された変化も分かりやすい。 「さいざき」は「幸崎」または「西崎」。矢野村の「下しらべ書出帖」では「御建西崎山」や「西崎川」と書か…

観音谷観音堂の入口

山の麓、矢野安浦線の起点近くは矢野の中心部で、呉線をくぐった先には役所の出張所がある。 すぐ北に迫る丘陵には住宅団地があるので、街路を詳細に示した地図では丘や谷の形がよくわからない。 絵地図状の史跡地図では、山林部との高低差が強調されていて…

「入口」の遠近

熊野方面への峠にさしかかる手前が呉市方面への分岐点になるので、バス停は「昭和入口」。矢野と接するのが呉市の昭和地区(旧昭和村*1)のためだが、「焼山」の方が通じやすいかも。現県道にたいして「旧県道」、さらに以前の「古道」がその痕跡をとどめて…

矢野の主要地方道

その谷筋から熊野方面へ通じる道が県道34号「矢野安浦線」。バイパスとして熊野トンネルを通る広島熊野道路がある。 広島熊野道路|広島県道路公社 谷川は細いが道路は幅広。 一 平谷村境ヨリ海田市境迄矢野村之内里程 壱里壱丁四拾四間三歩之内 矢野村峠登…

矢野の谷筋

安芸区の中では矢野地区は飛び地になっている。 他地区*1が瀬野川流域で、矢野は矢野川・宮下川の作る谷を中心とした区域。 絵下山・発喜山の東から北西へ向けて流れる小さな川が作る谷が、熊野・呉市方面への主要道でもある。 *1:船越・畑賀・中野・瀬野・…

矢野の渓流

安芸郡矢野の地形を山と海の方向で言い表すのは「国郡志御編集ニ付下しらべ書出帖」*1も同じ。 形勢気候民戸産業之事 一 当村西北ハ海、東南ハ山高ク連リ、一村限り川二筋流出、井手・雨池数々有之候(略) 村の中を流れる二筋の主流は「東川」「西川」と書…

矢野の位置

矢野駅前は尾崎神社裏参道の麓、多数の石碑が並ぶ中にある「髢之碑」は大正四年の建立。矢野町になる直前の頃。 全文は「髢之碑のだいたい」*1を参照。 冒頭では矢野村の地誌を述べてあるが、位置については他所の人がよく知る場所(広島城と呉軍港)を使っ…

大正六年の鳥居

安芸郡矢野村が町制を施行して矢野町となったのが大正6年10月。 表参道の石鳥居が「大正六年十月建立」。*1 この時から「當町」を名乗ることになったからか、とても力強い楷書。 *1:扁額と石工・鳶の部分は http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20090826/12512…

矢野町と矢野村

尾崎神社の所在地は安芸区矢野西。昭和50年に広島市と合併するまでは安芸郡矢野町。 昭和18年の狛犬の台座に「奉納者 矢野町 」とあり、 明治34年の注連柱には「願主 矢野村 」とある。 町制の意味でなく村の中の「町若連中」による狛犬は「文政三年庚辰」の…

「崎」の「山」

「崎」の字だけではないけれど、偏としての「山」は、あまり縦長になると不自然に余白を埋めている感じがする。 自然な大きさで書くと上なり下なりの余白ができるので、そのぶん旁の「奇」の中の「大」と「可」の勢いも影響される。 りっとうのように「山」…

浄土寺の尾崎町

四基の鳥居のうち、最前のものが昭和17年。 奥から二番目のものが新しくて平成5年。 どちらも奉納者の住所として浄土寺所在地の「尾崎」を載せるが、現在は「尾道市尾崎本町」で、昔の方は「當市尾崎町」。現在の「尾崎町」は浄土寺背後の山林部を指す。

額の中

稲守稲荷には四基の鳥居が奉納されている。 赤い鳥居は稲荷神社一般にあてはまる「正一位稲荷大明神」の額で、他三基の石鳥居が「正一位稲守稲荷大明神」。 語と語の間隔によって「稲守稲荷」が大きくなったり「大明神」が大きくなったり。

立体の宝珠

丹生明神の西隣には稲守稲荷が位置し、周囲に多数の祠が並んでいる。 祠の正面にある蝋燭立てが宝珠の形をしていたり、同じく正面の石の上に宝珠の浮き彫りがあったりと、狐と鳥居だけではない稲荷の装飾のバリエーションが見られる。

光背の像

梵字や絵なら壁面に自由に配置できるけれど、立体の仏像は平面や傾斜に置かないといけないか。垂直に見せるなら棚がいるか。 浄土寺境内の丹生明神の傍ら、石仏の並ぶ中の右端に「善光寺」の一体が見える。 多分阿弥陀・観音・勢至の三尊と、光背の上部にさ…

曼荼羅岩

その先の巨岩には「梵字岩」が刻まれている。 縦長の立て札が赤い矢印で示して、「東都湯島霊雲寺開基浄巌大和尚当地へ御留錫砌り書き遺されたるものなりと伝う」との由来を載せる。寛永16年から元禄15年の人。 浄厳について知りたい。 | レファレンス協同デ…

八体の並び

同じく千光寺境内。 平成8年奉納の「干支石仏」(八体仏)は、子歳が千手観音菩薩、午歳が勢至菩薩といった生まれ年ごとの守り本尊という意味付けで八体の仏像が安置されている。 どう配置して見せるかが他所の八体仏との違いであるし、十二支と関連させてい…

延享の六地蔵

鳥居の傍らには延享元年の六地蔵。鳥居の35年後にあたる。 三体ずつ横並びに参道を向いている。台座と台座の間に笊があるので数は4つ。 台座にそれぞれ「六地蔵」と刻まれている中で、本堂に近い方の一躰の台座には紀年と「願主 花光妙蓮尼」という名が正面…