環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

千日の千日風呂

鍛治古姫の千日風呂についての説明板は、願船寺之東にある千日風呂跡に立てられている。 ここのお堂は薬師ではなく大日。 高田郡史編纂委員会 編『高田郡史』民俗編,高田郡町村会,1979.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574…

千日風呂の南の薬師

向原町坂を東西に抜ける県道29号。「寺山口」バス停(現在は甲立タクシーのお太助バスのルート)の側にある説明板は、そこから南に入る「寺山の薬師さん」を解説する。 もと西福寺という大寺であったという薬師堂について、本尊薬師如来像のことや鍛治古姫の…

北へ流れる三篠川

亀崎橋は亀崎神社のある山の東に架かる。対岸が院内。このあたりで中深川と下深川の境となる。下深川村の『国郡志御用につき下調べ書出帳』では三田川(三篠川)について、「上ハ当郡中深川村アミダカ鼻ヨリ移リ」と境界の地名を挙げる。中深川村の方では「…

深川の中の中深川

平林神社は『国郡志御用につき下調べ書出帳』中深川村の「新宮」にあたる。文政2年当時は瓦葺の本殿と茅葺の拝殿で構成される。中深川村の絵図では山の端に「新宮」と書かれた神社の記号があり、山の麓の平地の側には「新宮迫」とある。地名の発生順が分かり…

小早川と吉川の取り違え

「毛利元就公御廟所之覚」(『高田郡史資料編』所収)は明和四年に萩から遣わされた小川嘉右衛門による吉田への道筋の記録。 「吉田ニテ屋鋪」とまとめられた元就家臣たちの屋敷跡のなかで、「吉川殿御屋敷十日市ノ後大河ノ端」とあるのは小早川の間違いのよ…

高田郡を通る巡見使

永井弥六『安芸高田郡郷土史こぼればなし』渓水社.昭和59 https://id.ndl.go.jp/bib/000001834772 に「巡見使通行入用」という項があり、天保9年の巡見使を迎えるにあたっての高田郡での諸経費の記録が収められている。 高田郡内では上入江村で休息と吉田町…

農村の見せ方

巡見使の通行する予定の村々に対して、心得として「拝見罷出候儀決而不相成事」と物見高く出てこないようにと言いながらも、「農人体之者一円不相見候而も如何敷ニ付」「少々之間遠之所江者一ヶ村之内ニ而三ヶ所程ニ五六人位ひ差出置可申」との指示もある。…

福王寺の麓

天保の幕府巡見使は可部町から北へ高田郡吉田へ向かい、山県郡を経て本地から再び可部を通った。 九品寺村・南原村を通る石州街道には一里塚があり、近くの分かれ道から福王寺に通じる。 巡見使との想定問答に「綾ヶ谷村福王寺さされ石若御覧被申仰候ハハ」…

他の郡のこと

その『高宮郡へ来た幕府巡見使』(下野岩太.昭和51年)は、可部の木坂文書(南原屋)に残された、天保9年の幕府巡見使を迎えるにあたっての諸控を紹介、書き写した本のこと。 村々の組頭が巡見使のお尋ねにどう答えるかを定めた問答集の部分は、可部という地…

資料に残る故人の関心

廿日市町史 資料編 2 (近世 上) https://id.ndl.go.jp/bib/000001230655 は、廿日市町時代の範囲の近世村ごとに関係文書を排列した資料集で、検地帳や地詰帳、国郡志御用につき下調べ書出帳などの史料から近世の村勢を探る手がかりとなる。 村ごとの史料の前…

上平良村の絵図のある本

『芸藩通志』の佐伯郡四に載る祠廟のページは送信サービスでは閲覧できないけれど、村絵図がある巻四十九と五十は見られる。 けれど狭い谷の多い村の地名はとくに字が小さく掠れて読みにくい。上平良村の場合所々下平良村の飛び地が「下ヘラ村分」と書き込ま…

『藝藩通志』巻五十三 佐伯郡四

前項のように、国立国会図書館「個人向けデジタル化資料送信サービス」によって手軽に『芸藩通志』を参照できるようになっている。 送信サービス可能なのは明治40年から刊行された『芸備叢書』の版で、戦後の刊行になる「芸藩通志刊行会」版(昭和38年)・「…

かじけ

『いしうちの地名をさぐる』は昭和57年に五日市民話民俗の会発行の五日市町域の地名語彙集。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能(http://id.ndl.go.jp/bib/000001577231)だが、広島市の図書館でももちろん現物は借りられる。 中組の架かるのは石…

百石という土地

その西法寺川が石内川と合流するあたりが「百石(ひゃくいし)」で、「石内湯戸下沖土地管理株式会社」による大きな説明板がある。 五日市町に合併する前の「石内村」の古名「石道」を紹介しつつ、この百石の地はかつて海岸が近かった頃の入江であったとし、…

返却ポストと取り囲む案内

4月末から5月半ばの、図書館休館期間は、借りていた本の返却だけができる状態だった。休館中に返却期限が来るわけではなく延長されてはいても、早めに返しておけばそのぶん次の予約者に取り置きしている旨表示があらわれる(「Myライブラリ」に表示される)。…

第3回平和祭の位置

その「2代目平和の鐘の物語」の資料には『ヒロシマの記録』(中国新聞社)から引用した平和祭の様子の写真が2点ある。その写真は、「2代目平和の鐘に関する新聞記事 hiroshima-peacebell.org に画像の載っている、当時の中国新聞記事を初出とする。 鐘を吊る…

橋の名義

『芸藩通志』巻七安芸国広島府二の「橋梁津渡」は西国街道の東から橋の名が並ぶ。 「俄羅々々橋」は「昔はがら竹を用ふ、故に名づく」とあり、 次の「猿猴橋」は「名義知れず」とする。怪異は蒐集してない。

県道174号

はてなダイアリーから数えて4600日。その道路は県道174号瀬野呉線。瀬野から熊野跡を経て熊野東部を抜けて苗代から呉市中心部へ向かう。 路線バスは熊野町中心部へ向かうので途中で西へ逸れるが、この県道は初神から南へ向かう。 『熊野町史 生活誌 資料 年…

御手洗川の鳥

その辺り、あまり水量の多くない御手洗川の真ん中で、コガモが塩ビパイプに掴まっている。 そこからちょっと下流へ、バイパス高架の近くの水管橋に佇むは青鷺。 前項と同じく下調べ書出帳の「鳥之類」には、31種の鳥が載っている。そのうち、カモの類は「鴈…

砂原の御手洗川

県道が御手洗川を跨ぐのが「宮内橋」で、その上流側には「砂原大橋」が架かる。「大橋」というほど幅広ではないが、車が余裕で通れるくらいの意味の「大橋」か。 文政2年の宮内村の『下調べ書出帳』にて、過去の大洪水によって川筋が不安定になってしまい、…

勝円寺の隣の米八幡

『文政三年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳』の村絵図「上中野村下中野村」は両村の境を表示しない。村別の「村内小名」は違いがあるものの重複もあるので地図にあらわすとかなり入り組んでしまう。 絵図上では「勝円寺」の東隣に「八マン」と「アミダ…

手水鉢とその周り

平成20年に設置された「熊谷の手水鉢」の記念碑は稲荷鳥居の南脇に立ち、そのすぐ奥に苔むした手水鉢が鎮まっている。苔とシダと藪に包まれた凹凸の著しい石の塊。 前世紀に『ファミリー可部』で連載された「かべの町かど」に載る「寺山」の項の稲荷社の写真…

生家附近の川岸

被爆樹木リスト共通の説明板はこじんまりとしていて、その隣にある「原民喜ゆかりの被爆柳」の説明板の方が大きくて目立つ。 この柳が、というよりもこの土地が原民喜と深く関わる土地あったということで「ゆかりの」被爆樹木となる。「かつて彼の持ち家があ…

西条盆地東半分

憩いの森の中に進んで、見晴らしのいい展望台から麓を望むとその方角は南にひらけている。 見晴らしがいいとは言ってもここは山懐。右手前方には龍王山から連なる山塊に囲まれている。 【中古】広島県百名山 /葦書房(福岡)/中島篤巳 (単行本)ジャンル: 本…

坂町の海水浴場

坂町のサイト内の町の沿革は、年に数項目ずつ、事細かに記載されている。では古代から最近までだらだら連なっているかというと、町政施行以前と以後というページの分け方ですっきりしている。 坂町の沿革(町制施行から)|坂町の沿革|町政情報|広島県 坂…

玖村

玖村駅が設置された大正5年は、所在地の村名は「落合村」で、大字が「玖」。 「く」だけでは落ち着かないのか「くむら」として現在も住居表示以外で使われる。 村名の由来について、玖村の『国郡志御用につき下調べ書出帳』は「久村玄蕃」が城主であったとい…

昭和橋のあった道

現在の県道272号は「新昭和橋」で八幡川を渡る。 府中大川の土手上を県道が通っていた頃は「昭和橋」が八幡川河口にあった。さきの参拝記で、参詣道の石碑を過ぎた後で通った所。 此橋こそ前に述べた河川大改造の際、八幡川の水路を埋め立てたる爲、之が水を…

榎川の名

『藝州府中荘誌』の「第一章 地誌 六、河川」には五つの河川名が項目となっている。一括りにすると府中大川とその支流にあたるが、御衣尾川と山田川が合流して以降を「榎川」と呼ぶので、府中大川に合流する川は二本。 榎川についての説明は語源の考察と堤防…

土手の上の掲揚台

榎川土手の北は府中小学校が隣接する。 校門から土手に上がる大階段の頂上真ん中に国旗掲揚台が設けられている。地元企業による建設で昭和42年10月竣工。 沿革:府中町立府中小学校 同校の沿革にはとくに載っていない。同年同月の出来事に「給食教育全国表彰…

昔の文化橋

菅原守編『藝州府中荘誌』に載る「縣社多家神社参拝記」は昭和5年の多家神社境内の様子*1だけでなく、広島駅からの乗合自動車の車中から見える様子も記されている。 榎川に架かる文化橋は多家神社の川下に位置するので、榎川沿いの県道の左手に見えることに…