環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

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街道松の記録

西国街道は佐方中橋の西から桜尾に入る。左手が桜尾本町、右手が大東。 桜尾本町側の小さな公園「桜尾公園」には「街道松」のうちの一本が残っていて、説明板にはかつて松並木があったことを記す。 このあたりも、 東の佐方中橋から桂公園のあたりまで、 文…

描かれた境内

大浜の長福寺釈迦堂は対岸の豊島を眺められる丘の上にある。 kanototori.hatenablog.jp www.city.kure.lg.jp 『四国五郎が描いたふるさと・豊浜』は令和2年に豊浜市民センターで展示された旧豊浜町の絵37点が掲載されている*1。その中の1点「長福寺から豊島…

五日市北口の白ポスト

五日市駅の自由通路は南北それぞれにスロープ(斜路)が設けられているので自転車の移動が可能(走ったら危ない)。 北口の斜路出入口付近にかつて白ポストが置かれていた。写真は平成23年で、Googleストリートビューでは平成30年まではあり、翌年にはもう無…

大正昭和の可部町

自然歩道の表示のすぐ奥には「大本山 福王寺」の石碑がある。 昭和12年可部町(当時)の増井清兵衛による寄附。 この人名を国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、多くは昭和初期の官報が並ぶ。 全日本社会教育連合会 編『わが青年時代』,大蔵省…

説明板諸相:甲丸

山城展望台は木造の三階層の展望施設。モノレール山頂乗降場の目の前に聳える。 説明板は「甲丸(つめのまる)」を解説している。近世の呼称「本丸」が有名なので、まず安国寺恵瓊が広島城本丸を「甲丸」と書いていたことに触れ、中世山城の甲丸に建てられた…

国道と参詣道

専隆寺の参詣道は国道183号(旧54号)に接する入口に石柱がある。その脇には参詣道の記念碑がある。 題字は右縦書きで「専隆寺参詣道開設紀念」。側面に建立年月日があり、明治39年5月21日とあるので、施主の「三入村大字上町屋」から当時のここが三入村だと…

宮島街道のはじまり

空から見た広島今昔―昭和14年vs昭和59年 (1985年)中国新聞社Amazon昭和60年の『空から見た広島今昔』は、昭和14年と昭和59年の広島市中心部と周辺の航空写真を28に区分して解説してある。 その中の「己斐町」の項には現宮島街道の工事の経過が書かれている。…

五日市のベスト電器だった所

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平成20年、佐伯警察署用地がまだ空き地だったころ、すぐ東の八幡川周辺には商業施設が並んでいるのが見える。 北寄りにサンリブの看板が見え、建物は隣接しているが看板は離れているベスト電器の赤い看板が目立つ。 この建物は後にフタバ図書GIGA五日市店に…

対岸の皆賀

五日市駅前の北、八幡川の対岸は皆賀。 五日市村の『国郡志御用ニ付下調書出帳』(五日市町誌)の「神祠」に「氏神八幡宮」が「皆賀村之内ニ有」として掲載されている。「近村十五ヶ村惣氏神」であることによる。八幡川の旧流路が西にあった頃なら今より川を…

豊田郡と三次郡への分かれ道

その県道の交差点には養魚場(釣り堀)の看板があったが後に無くなり幟に変わっていた(写真は平成24年)。 その手前の標識には隣の町への距離が示してある。左へ現在は三次市の三和町に14km、直進で現在は東広島市の豊栄町へ10km。安芸高田市(旧高田郡)の…

千日の千日風呂

鍛治古姫の千日風呂についての説明板は、願船寺之東にある千日風呂跡に立てられている。 ここのお堂は薬師ではなく大日。 高田郡史編纂委員会 編『高田郡史』民俗編,高田郡町村会,1979.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574…

千日風呂の南の薬師

向原町坂を東西に抜ける県道29号。「寺山口」バス停(現在は甲立タクシーのお太助バスのルート)の側にある説明板は、そこから南に入る「寺山の薬師さん」を解説する。 もと西福寺という大寺であったという薬師堂について、本尊薬師如来像のことや鍛治古姫の…

北へ流れる三篠川

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亀崎橋は亀崎神社のある山の東に架かる。対岸が院内。このあたりで中深川と下深川の境となる。下深川村の『国郡志御用につき下調べ書出帳』では三田川(三篠川)について、「上ハ当郡中深川村アミダカ鼻ヨリ移リ」と境界の地名を挙げる。中深川村の方では「…

深川の中の中深川

平林神社は『国郡志御用につき下調べ書出帳』中深川村の「新宮」にあたる。文政2年当時は瓦葺の本殿と茅葺の拝殿で構成される。中深川村の絵図では山の端に「新宮」と書かれた神社の記号があり、山の麓の平地の側には「新宮迫」とある。地名の発生順が分かり…

小早川と吉川の取り違え

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「毛利元就公御廟所之覚」(『高田郡史資料編』所収)は明和四年に萩から遣わされた小川嘉右衛門による吉田への道筋の記録。 「吉田ニテ屋鋪」とまとめられた元就家臣たちの屋敷跡のなかで、「吉川殿御屋敷十日市ノ後大河ノ端」とあるのは小早川の間違いのよ…

高田郡を通る巡見使

永井弥六『安芸高田郡郷土史こぼればなし』渓水社.昭和59 https://id.ndl.go.jp/bib/000001834772 に「巡見使通行入用」という項があり、天保9年の巡見使を迎えるにあたっての高田郡での諸経費の記録が収められている。 高田郡内では上入江村で休息と吉田町…

農村の見せ方

巡見使の通行する予定の村々に対して、心得として「拝見罷出候儀決而不相成事」と物見高く出てこないようにと言いながらも、「農人体之者一円不相見候而も如何敷ニ付」「少々之間遠之所江者一ヶ村之内ニ而三ヶ所程ニ五六人位ひ差出置可申」との指示もある。…

福王寺の麓

天保の幕府巡見使は可部町から北へ高田郡吉田へ向かい、山県郡を経て本地から再び可部を通った。 九品寺村・南原村を通る石州街道には一里塚があり、近くの分かれ道から福王寺に通じる。 巡見使との想定問答に「綾ヶ谷村福王寺さされ石若御覧被申仰候ハハ」…

他の郡のこと

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その『高宮郡へ来た幕府巡見使』(下野岩太.昭和51年)は、可部の木坂文書(南原屋)に残された、天保9年の幕府巡見使を迎えるにあたっての諸控を紹介、書き写した本のこと。 村々の組頭が巡見使のお尋ねにどう答えるかを定めた問答集の部分は、可部という地…

資料に残る故人の関心

廿日市町史 資料編 2 (近世 上) https://id.ndl.go.jp/bib/000001230655 は、廿日市町時代の範囲の近世村ごとに関係文書を排列した資料集で、検地帳や地詰帳、国郡志御用につき下調べ書出帳などの史料から近世の村勢を探る手がかりとなる。 村ごとの史料の前…

上平良村の絵図のある本

『芸藩通志』の佐伯郡四に載る祠廟のページは送信サービスでは閲覧できないけれど、村絵図がある巻四十九と五十は見られる。 けれど狭い谷の多い村の地名はとくに字が小さく掠れて読みにくい。上平良村の場合所々下平良村の飛び地が「下ヘラ村分」と書き込ま…

『藝藩通志』巻五十三 佐伯郡四

前項のように、国立国会図書館「個人向けデジタル化資料送信サービス」によって手軽に『芸藩通志』を参照できるようになっている。 送信サービス可能なのは明治40年から刊行された『芸備叢書』の版で、戦後の刊行になる「芸藩通志刊行会」版(昭和38年)・「…

かじけ

『いしうちの地名をさぐる』は昭和57年に五日市民話民俗の会発行の五日市町域の地名語彙集。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能(http://id.ndl.go.jp/bib/000001577231)だが、広島市の図書館でももちろん現物は借りられる。 中組の架かるのは石…

百石という土地

その西法寺川が石内川と合流するあたりが「百石(ひゃくいし)」で、「石内湯戸下沖土地管理株式会社」による大きな説明板がある。 五日市町に合併する前の「石内村」の古名「石道」を紹介しつつ、この百石の地はかつて海岸が近かった頃の入江であったとし、…

返却ポストと取り囲む案内

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4月末から5月半ばの、図書館休館期間は、借りていた本の返却だけができる状態だった。休館中に返却期限が来るわけではなく延長されてはいても、早めに返しておけばそのぶん次の予約者に取り置きしている旨表示があらわれる(「Myライブラリ」に表示される)。…

第3回平和祭の位置

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その「2代目平和の鐘の物語」の資料には『ヒロシマの記録』(中国新聞社)から引用した平和祭の様子の写真が2点ある。その写真は、「2代目平和の鐘に関する新聞記事 hiroshima-peacebell.org に画像の載っている、当時の中国新聞記事を初出とする。 鐘を吊る…

橋の名義

『芸藩通志』巻七安芸国広島府二の「橋梁津渡」は西国街道の東から橋の名が並ぶ。 「俄羅々々橋」は「昔はがら竹を用ふ、故に名づく」とあり、 次の「猿猴橋」は「名義知れず」とする。怪異は蒐集してない。

県道174号

はてなダイアリーから数えて4600日。その道路は県道174号瀬野呉線。瀬野から熊野跡を経て熊野東部を抜けて苗代から呉市中心部へ向かう。 路線バスは熊野町中心部へ向かうので途中で西へ逸れるが、この県道は初神から南へ向かう。 『熊野町史 生活誌 資料 年…

御手洗川の鳥

その辺り、あまり水量の多くない御手洗川の真ん中で、コガモが塩ビパイプに掴まっている。 そこからちょっと下流へ、バイパス高架の近くの水管橋に佇むは青鷺。 前項と同じく下調べ書出帳の「鳥之類」には、31種の鳥が載っている。そのうち、カモの類は「鴈…

砂原の御手洗川

県道が御手洗川を跨ぐのが「宮内橋」で、その上流側には「砂原大橋」が架かる。「大橋」というほど幅広ではないが、車が余裕で通れるくらいの意味の「大橋」か。 文政2年の宮内村の『下調べ書出帳』にて、過去の大洪水によって川筋が不安定になってしまい、…