環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

矢野東の古墳(ニ)

もう一度「火ノ釜」の形状についての記述を抜き出すと、横穴の寸法と石組みの出来と間口の広さが調べられている。

何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方

それらの西崎山や近隣の古墳が古墳であるとの認識のもとで記録されるようになるのは明治の半ば。重田定一「安藝國矢野村の古墳」(考古界第四篇第六號)で調査報告されているのが「西尾古墳」「北尾古墳」「千古古墳」などと後に呼ばれることになる古墳。とくに「字西崎といふ山林にて村人某々等、庭石を取らんとて、偶然石室を見出したるよし聞き込みたる」というきっかけで調査された千古古墳は石室内の図も掲載されている。


北尾古墳については、既に以前から暴露開口していたもののようで、

字を北尾とて、これも同じようなる丘陵の半腹に、南面に石槨の暴露せるものあり。入口の天井石は厚さ一尺八寸、幅七尺餘もあるべく、四邊は鋤きかへされて、畠となり居れば、前面甚だ崩壊して土砂これをふさぎ、辛く内部を窺ふことを得べし

周りが耕地になっていたというのは海田の畝観音免古墳と似ている。現在は団地と耕地の間にかろうじて残っている。


前者の「千古古墳」のように、近代になってはじめて開口したとみられる古墳は、それ単体では「火の釜」と呼ばれたことは無い、ということになる。
同報告では、千古古墳と同じ山の尾や東北方に三箇所の石槨(ママ)跡が確認されているのでそれらの崩壊の程度の大きい古墳がかつて「火の釜」として伝承された「古跡」だったのだろう。*1

*1:逆の言い方だと「そのうち三個は前述の如く文化年間に「火の釜」として注意されているから、早くから開口していたものであろう。」『広島県矢野町史 上巻』