環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

備北の一斑

庄原市に足を踏み入れたことの無い身でも、移築された横穴式石室を見ることでその地域の古墳にわずかながら接することができる。篠津原は庄原市高町、旧三上郡高村。


ということで、その名称と記述からして「火の釜」と似たつくりをしていたらしい「火塚」の例を並べてみる。
奴可郡では四ヶ村に記述がある。(『東城町史』『西城町史』所収)
未渡村では数々あるうちの2ヶ所の寸法が載っている。火の釜同様の諸説を伴う。

火塚 壱ヶ所 原田之脇ニ有 幅三尺、高三尺五寸、長三間、両脇石垣、蓋大石ニ而御座候、上代人住居いたし候共、又者火降り候故拵候ものとも申伝候
 同 壱ヶ所 ひのめと申所ニ有 幅壱尺、高三尺余、長弐間半
 〆 弐ヶ所 此外数々御座候得共自然と石垣崩れ、聢与難分ニ付書載不申候


内堀村の1ヶ所は穴の寸法だけでなく「塚之上」の様子もあり、墳丘の残存状態がよかったらしいことがわかる。

火塚 壱ヶ所 薬師堂林と申処ニ有 高六尺、深サ弐間半余、幅五尺位、塚之上ニ柴木生茂リ居申候


中迫村では2ヶ所の寸法が載るが、未渡村と違って由来に関する伝説は無いという報告。

本郷の内大迫 火塚 壱ヶ所 高弐尺 横三尺 入込深廿壱丈
福山反谷 同 壱ヶ所 高廿七尺 横四尺 入込深弐間
 〆 此火塚と申説何の為に築候もの哉伝語も無御座候

平子村も2ヶ所で、中迫村同様に何の為に作られたものか不明とする。用途がわからなくなるくらいに「往昔」と「後世」に相当な隔たりがあることは感得しつつ、「上代人」や「火降り」といった説を受け入れるまでには至らない(またはすでに旧説となっていたか)。

火塚 弐ヵ所
 竹原 壱ヶ所 穴口壱間四方 深サ壱間
 千原尻 穴口横四尺 壱ヶ所 高四尺 深サ壱間
 〆 往昔何の為に拵置たる物哉 後世聢与相知レ不申候

恵蘇郡の元常谷には「火の雨」説を伴う「火塚石」の名が見える。寸法の表現からすると、整然とした横穴の開口ではなく、石の落下などで入口が狭まったような崩壊過程を思わせる。だからこそ単なる「火塚」ではなく「石」に重点があるのだろう。

はま 火塚石 石高二尺五寸 ふた石壱間四方 内広三尺四方 但、往古火の雨降り候事共御座候由、其際此石囲の内ニテ人相凌候事の由申伝候