環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

「新開の」町々

「やすかわしんかい」「やすがわしんかい」「やすかわしんがい」「やすがわしんがい」どれにしよう。

それはさておき。以下、引用文はすべて青空文庫*1から。*2

    • 東京の変貌

「新開の」と形容された地名は、たいてい明治の頃新たに造られた都市や集落で、最大のものに東京がある。遡って江戸からして新開の町として見られる。

 ところが徳川の天下になると、今度は江戸城下の新開地に日本各国の人民が集まって、ここに日本式最初のプロ文化を作り始めた。しかも前に立った貴族文化が主として藤原氏を中心とし、武人の文化が源氏や北条氏を首石(おやいし)にしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合い勢(ぜい)で作ったものに相違なかった。
『街頭から見た新東京の裏面』杉山萠圓(夢野久作

それでもしも日本画の展覧会を西欧都市で開催でもすると、日本に汽車はあるかと訊くところのタタミ、ハラキリ的西洋人はうっかりと東洋天国を夢想して今に吉祥天女在世の生活にあこがれ、日本人はことごとく南宋的山水の中で童子をしたがえて琴を弾じ、治兵衛は今も天満で紙屋をしているように思ってくれたりするかも知れない。そしてはるばるやって来ると富士山の下で天人がカフェーを開いているし、新開の東京にはフォーブとシュールレアリズムとプロレタリア芸術が喧嘩をしていたりするわけだから、少々ばかり驚くことだろう。
『油絵新技法』小出楢重

大震災からの復興が東京をさらに新開の町に変えた。東京の中で新旧の町並みの差が激しくなって、新しい町はおおむね粗末で殺風景な印象を与えた。復興を終えれば人の目を楽しませる風景になるのではあるが、停留所・看板・新しい商店・広い道路、それら人工物が馴染んでくる頃にはもうそこは「新開の」とは呼ばれない町になっている。懐古趣味でしか肯定的に見てくれない所ともとれる。

 銀座に来ると模様がガラリと違う。
 地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックが犇(ひしめ)き並んで、見様(みよう)によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。数年後にはブチ壊すにしても、そんな粗末なものは作らないぞ」と腕まくりをして並んでいるのだから無理もない。ちょっと見るとこれがバラックかと思われるようなのもあって、新開地式の安ッポイ気分があまり流れていない。
 裏通りも同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子先には、昔にかわらぬ打水に盛塩(もりじお)の気分がチョイチョイ出ている。
(略)
 その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。
『街頭から見た新東京の裏面』杉山萠圓(夢野久作

 新開地を追うて來て新に店を構へた仕出し屋の主人が店先に頬杖を突いて行儀惡く寢ころんで居る眼の前へ、膳椀の類を出し並べて賣り付けようとして居る行商人もあつた。其處らの森陰の汚ない藁屋の障子の奧からは端唄の三味線をさらつて居る音も聞こえた。かうして我大東京はだらしなく無設計に横に擴がつて、美しい武藏野を何處迄もと蠶食して行くのである。こんなにしなくても市中の地の底へ何層樓のアパートメントでも建てた方がよささうに思はれる。さうしないと、おしまひには米や大根を地下室の棚で作らなければならない事になるかも知れない。
(略)
 想ふに「場末の新開町」といふ言葉は今の東京市の殆んど全部に當嵌まる言葉である。
『冩生紀行』寺田寅彦

山崎の周ちゃんの店は渋谷から出る東横バスの若林というところのすぐわきです。おりて、どこかしらとクルクル見まわしていたら、いかにも新開の大通りらしい町なみに、ヤマサキ洋装店とかんばんが出ていて、すぐわかりました。
『獄中への手紙 一九四一年(昭和十六年)』宮本百合子

その植木屋も新建ちの一軒家で、売り物のひょろ松やら樫(かし)やら黄楊(つげ)やら八ツ手やらがその周囲にだらしなく植え付けられてあるが、その向こうには千駄谷の街道を持っている新開の屋敷町が参差(しんし)として連なって、二階のガラス窓には朝日の光がきらきらと輝き渡った。左は角筈(つのはず)の工場の幾棟、細い煙筒からはもう労働に取りかかった朝の煙がくろく低く靡(なび)いている。晴れた空には林を越して電信柱が頭だけ見える。
少女病田山花袋

特に武蔵野(むさしの)の平野を縦横に貫通している、様々な私設線の電車に乗って、沿線の新開町を見に行くのが、不思議に物珍らしく楽しみである。碑文谷(ひもんや)、武蔵小山(こやま)、戸越(とごし)銀座など、見たことも聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢に見る竜宮城のように雑沓している。開店広告の赤い旗が、店々の前にひるがえり、チンドン楽隊の鳴らす響が、秋空に高く聴(きこ)えているのである。
『秋と漫歩』萩原朔太郎

 三越が新宿に進出し、現在の二幸のところに支店を開いたのは大正十五年十月であった。まだその頃の新宿は新開の発展地とはいえ、これといって目に立つほどの商店もなかったから、三越支店の出現が、新宿一帯の地に与えた刺激は大きかった。
『一商人として――所信と体験――』相馬愛蔵相馬黒光

    • 地方都市そのほか

北海道の全体が新しい場所と捉えられ、その中でも早くからの都市である函館。同じく新たな港町である横浜・神戸・佐世保など。また明治末の新領土台湾も「新開島」と。

今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいというので、そのことを十一屋の隠居が通知してよこしたのだ。
(略)
表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に名高い呉服屋や老舗のシッカリしたバラックがチラホラとまじっている。北海道あたりの新開町でもこれ位の処はザラにありそうに見える。
『街頭から見た新東京の裏面』杉山萠圓(夢野久作

旭川平原をずつと縮めた樣な天鹽川の盆地に、一握りの人家を落した新開町。停車場前から、大通りを鍵の手に折れて、木羽葺が何百か並むで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな眞宗の寺、天理教會、清素な耶蘇教會堂も見えた。店頭(みせさき)で見つけた眞桑瓜を買うて、天鹽川に往つて見る。
『熊の足跡』徳冨蘆花

 瑞見は遠く蝦夷(えぞ)の方で採薬、薬園、病院、疏水(そすい)、養蚕等の施設を早く目論(もくろ)んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。
『夜明け前 第一部上』島崎藤村

一つには父は脳病が持病で、馴れぬ熱い土地へ孤りで行ってもし突然の事でも起ってはと云う母の少からぬ心痛もあり結局母はすべてのものを擲って父の為めに新開島へ渡る事に決心したのであった。小中学校さえもない土地へ行くのである為め長兄は鹿児島の造士館へ、次兄は今迄通り沖縄の中学へ残して出立する事になった。
『梟啼く』杉田久女

*1:http://www.aozora.gr.jp/

*2:個別のリンクを張るにはちょっと夜も更けていて