環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

御山神社の前身

弥山の山上の御山神社も三棟の社殿を持つ。神仏分離によって三鬼堂が移され、厳島の三女神を祀る「御山神社(Miyama-Shrine )」となる。
厳島神仏混淆を本来の姿ではないとみなす態度は、すでに黒川道祐芸備国郡志』(寛文三年以前)にあらわれている。

厳島の明神は、天照太神の御子にして、徳光今に輝けり、然るに空海が輩一旦此に来たり、漫りに左道の説を設けて、所謂日本の神社、本地仏にして垂跡は神なり。(略)牽強付会して以て本地十一面観音の証と為す。ああ痛ましきかな。


登山道から分岐しての参道途中に由緒書きがあり、

御山神社は、厳島神社の奥宮で、本殿三棟が品字形に並び、御祭神三女神が夫々一柱ずつ祀られています。いずれも一間社流造で屋根は〓*1葺、丹塗の御社殿で、昔から「さんきさん」として崇敬の篤いお社です

と説明される。もとの「三鬼堂」であったことはぼやかした書き方。


『宮島町史』所収の近世の地誌(『厳島道芝記』『中国名所図会』『芸藩通志』『厳島図会』)は、既存の資料を踏襲してのことか、この三鬼堂についてどれも似たような記述になっている。「三鬼」*2とは「追帳鬼神」「魔羅鬼神」「時眉鬼神」であること、「盤石」の上に鎮座していること、それを「瑞垣」がとりまいていて、外に石鳥居があること、松柏が生い茂っていること、正面は数十丈(「二十丈」とも「数百丈」とも)の「巖壁」で足がすくむ所であるという。

一番時期の下がる『厳島図会』では、さらに海の向こうの遠景の描写が加わる。

また遠望の景ありて、伊豫の山〃黛のことく、釣する蜑の小舟までミな烏精の客にあらずといふことなし


正面を見ても海が見えないけれども、当時はどういう展望だったのだろう*3

*1:こけら

*2:wikipedia:三鬼大権現

*3:厳島図会』に三鬼堂周辺の絵があり、頼春水の詩が添えられている