環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

昭和、大正、明治

もう一件、「青空文庫」を頼りに宮島のこと。「寺田寅彦 千人針」の中の一文。

日清日露戦争には厳島(いつくしま)神社のしゃもじが流行したように思う。あれは「めしとる」という意味であったそうである。千人針にもついでに五銭白銅を縫付け「しせんを越える」というおまじないにする人もあるという話である。これも後世のために記録しておくべき史実の一つである。

これが昭和七年の文章。明治生まれでこの頃五十代、当然のことながら日清日露戦争をよく知る世代である。そんなに遠い昔の話ではないが、大正生まれの人にとっては近いような遠いような実感の湧きにくい出来事である。

 むかし、小学生だった私は、あるとき「日露戦争二十五周年記念」と書いた粗末なビラを見た。この機会に往年の兵士よ集まれというほどのことが書いてあった。子供の私はながいことその前に立ちつくした。それまで私にとって東郷元帥も広瀬中佐も歴史中の人物だった。(略)
 私は私の親たちほど日露戦争を経験していないけれど、親たちの次くらいは経験している。「清国うつべし露国うつべし」という文句も承知している。当時の沸くがごとき国民の熱狂ぶりも知っている。だからずーっとあとになって、昭和十六年日米開戦のときの国民の熱狂ぶりとくらべて、日露の昔の熱狂とはまるで違うと、経験してもいないくせにわかったのである。
   山本夏彦毒言独語 (中公文庫)』中公文庫 p274-276「誕生の時間歴史の時間」

同書に限らないが、本によって平成の今と昭和の戦前の懸隔を、二十年三十年前の文章で埋めることができる。
戦前の文士の貧したこと、逆に金銭に困らなくなると乱作に陥り迎合を尽くすようになること、不労所得が文士の遺児を毒すること、著作権保護期間が50年に伸ばされたことなどを知ることができる*1。これらのことはみな僅々百年の「指呼の間である」から、平成から天保、さらに前まで連綿と遡れる道理である。

*1:前掲書p28-30「著作権延長に反対する」