香川南浜は「遊長門島記」で実際に現地に訪れて、倉橋島が長門島にあたることを繰り返す。
余三十歳ばかりの頃より、長門島は、必ず倉橋島なるべしと、うたがひ思ひて、既に、秋夜長話初編に、これを書たりき、今既に三十年に近して、猶已ことなく、彼島の人にも、又は、その所往来の人にも尋ねけれど、たしかなる事も聞えず、
(略)
本浦繁昌の地なり、此処、本は倉橋といふ、今此島の島本なるゆゑ、本浦と称す、此浦の名を、一島にかゝふらしめしゆゑ、長門島の名隠れて、僅に長門崎、長門口の名のみ存せり、此所船を造て業とす、本浦より少し東に、宮の濱といふ所あり、此処、万葉集の歌に、よく合り、濱邊に松原あり、今は老松なれど、長門島の小松原と、よみし此処なるべし
『芸藩通志』巻百四十六
古代の事物がそのまま残っているのを期待するのは困難ではあるけれども、地名や景観の考察を経て『芸藩通志』では安芸郡の古蹟名勝の部に「長門島」と「長門浦」が立項されることとなる。
「長門島」の項には『万葉集』の「安藝國長門島、舶泊礒邊作歌五首」を載せる。
「長門浦」は本浦を指すとして、『万葉集』の「従長門浦舶出之夜、仰観月光作歌三首」を載せている。
月余見乃、比可里乎伎欲美、由布奈藝爾、加古能古惠欲妣、宇良末許具可母