環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

「岡岷山展」2 縮景園復興

第七代藩主の浅野重晟の元服の年、城下の大火災*1縮景園も被害に遭った。この年岡岷山は25歳。その後の明和・安永・天明年間にかけて修復、拡張、大改修が行われ、清水七郎右衛門による「跨虹橋」が誕生した。*2
改修後、重晟は頼春水・梅園太嶺・岡利源太(岷山)らに案を出させて縮景園名勝34箇所を名付けた。
縮景園八勝図*3のひとつ「宮岳彩雲」は、縮景園から見た厳島の山塊が雲間に浮かぶ。園内第一の築山「迎暉峰」から広島湾の島々が一望できたというが、今は見えない。

殊に海路はるけく行かふ船のほの見ゆるは、更にたぐひなきながめなり。されど此あたりにては、此山のミいと高ければ、朝日はまづ我がものがほなりければ、迎暉峰とよび給ふもむべなりかし。
頼杏坪縮景園仮名記」(『縮景園史』より抜粋)

参考

縮景園史』広島県教育委員会 S59
展示図録(前項掲)

*1:宝暦の大火:1758年

*2:かいつまんでみた

*3:「この八勝図は文化・文政期の作といわれ、銘はないが園内の名勝選定に携わった岡岷山あるいはその関係の絵師が描いたと考えられている」『展示図録 岡岷山展』