環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

本地村の視点

横穴式石室の開口状態を指しての呼び名に、おおよその地域差があることが「国郡志御用に付下調べ書出帳」の記載から見えてくる。先行した安芸郡は「窟」「籠り塚」「火の釜」「山伏塚」など多様で、賀茂郡は「火の釜」に統一、豊田郡は著名な「親王石棺」を除くともっぱら「塚穴」。高宮郡は「人穴」に統一、奴可郡には天然の洞窟を「窟」としているから「火塚」が人工物に対する呼称だろう。高田郡はまとめると「塚」。


山県郡本地村では「書出帳」への記載は無かったものの、当地の国学者後藤夷臣の『山縣郡本地村猿の国郡志』*1に「石室(イハヤ)」の名で詳細に言及される。*2

石室 里俗は石風呂または石塚といふ、これは当村に限らす外村他郡にもいと多きものなり、(略)扨この石室を上代の穴居の跡なりとは筑前の学宦貝原先生の沙汰なり、少し小なるは土蔵といふものにてものを貯へし処と云、今世の土蔵のこときものにて、今の代の造りさまは上代のと上底(ウラウエ)の違ひなれとも、土蔵(ツチニカクス)の文字はこれによると云り、里俗は昔火の雨(アメ)降し時構へし穴なりといふ、貝原の穴居の説さもあらむか、(略)

他郡の呼称でこれまで目にしたものとは違って「石風呂」「石塚」の名が挙がっており、他村の書出帳を直接見て得た情報ではないかもしれないが、「外村他郡にもいと多きもの」とあるので呼び名が違っても同類のものを指しているという認識。
「穴居の跡」説は貝原益軒から引き、日本書紀から天の岩戸や穴居の記述を挙げ、万葉集から「三保岩屋」と「志都か岩屋」を挙げている。すくなくとも「火の雨」説は「里俗」にとどまって信を置いていないが「穴居」には信憑性があると見た記述。

*1:千代田町史 近世資料編 (下)』(千代田町役場編. 1990 . 千代田町役場)に収録

*2:北広島町本地 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20110725/1311609655