環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

海応寺跡

天正14年*1吉川元春が亡くなる。戒名は「随浪院殿前駿州大守四品海翁正恵大居士」。
ということで没後は「海翁(応)」と呼ばれることに。

(略)海翁御証判之旨遣置候(略)天正拾五年十月朔日 経言
「吉川経言安堵状」

館の西隣に(写真奥の山林)埋葬され、天正十九年以降、菩提寺「海応寺」が建立された。
木立と茂みの中に「海応寺跡」という表示が立っている。

この平坦面は未発掘で、南北40m・東西25−35mの範囲が推定されている。
藝藩通志』の「海應寺村」の項に「古は貝會寺*2の字を用ふ、村内に寺址あり」とある。
寺院名が揺れるというよりも、村名に拡大したために馴染みやすい文字になったということだろうか。

参考

*1:1586年

*2:かいあふじ